「気づき」カテゴリーアーカイブ

思考した1月。たのしくなあれ2月。

のろまな亀の歩みのように終わったような気がする2019年1月。
亀のような歩みのなかで考えることも多かったように思う。

一昨年からお世話になっている先生と会い、お話を聴き、思いを巡らすことが多くなった1月だった。まだまだ解は出せないのだけど、永遠に解は出せないのかもしれないのだけど、一歩でも1ミリでも想いを、暗黙知を、言葉にしたいという気持ちが今まで以上にむくむくとし、そのことにわくわくもした2019年の1月だった。

ずっと気になっていた編集という仕事。その道のど真ん中にいる方のお話を聴き、言葉をかわすこともできた月でもあった。心のどこかで私の仕事は、私がしたいことは翻訳ではないかと思っているところがあり、翻訳と編集ということがもしかすると私の仕事を表す重要な言葉なのではないかとぼんやり思っていた。以前は編集といえば松岡正剛さんと思っていたのだけど、今は注目されている編集者さんが何人もいて、そんな方々が出版されたり講演されたりで引っぱりだこのように見受けられる。これもまた時代を象徴する、今の時代が求めていることなのだろうと思う。

先生といい、編集者の方といい、その道で真摯にきちんとお仕事をされている方は奥が深いとつくづく感じた1月でもあった。全国区の方だからすごいということではないのだろうけど、その道で知られる人は、それだけの理由があるわけで、地方で声高に語るだけの人とは違うということを話を聞くと思い知らされる。安直にひとことでいえば本物は違う、のだ。関東のすごいところは、そういう人がうじょうじょいるということなのだろうと思う。面白い人、本物がたくさんいるからその化学反応で面白いことが生まれ、本物が育つ。本物に鍛えられた人たちがまた本物になっていく。その連鎖がうまれる構造があること自体がすごいことなのだろうと思うのだ。地方創生とかなんとか言われながらスタートアップイベントやそのほかいろいろなイベントや事業が行われているのだけど、本物の連鎖みたいなものがまだ起きていなくて、ニセモノっぽいヒトモノコトばかりがプツプツとうまれては勘違いに包まれた小さな世界の中で井の中の蛙になっている。そんな印象がある。ニセモノもそのうち本物へと育っていけば良いのだから、へんな縄張り意識はとっぱらって本物の連鎖に育つように心をオープンに発想をひろくすれば良いのになぁ。枠組みにとらわれすぎてはいないだろうか。そんなことが頭をかすめた1月でもあった。

否定からはいって可能性の面白さの枠を決めつけるのはもったいない。まずは肯定からはいってみようよ!と自分の中の壁をわたしなりに外すことを意識してみたら、あらあらなんだか不必要なこだわりがちょっとはなくなったような気がする2019年の1月が終わった。

さて2月。私の2月たのしくなぁれ。

ファシリテーションと赤毛のアン

5年くらい前からファシリテーションということに興味を持っています。
ここ2、3年で2つのタイプのファシリテーション講座を受講しました。

1つは、いわゆるノウハウを学ぶような講座。
話し合いの場で、合意形成や相互理解を促したり、
あるいは混沌としたやりとりを整理したり、
そこから何か方向性や考え方、やり方などを見つけていく、
その方法の概要を教えてくれたような、
あくまでも概要なんですが、そんな講座でした。

もう1つは、前に少し書いた、これ自己啓発講座じゃないの?っていうような、
ノウハウではなく、ファシリテーターのあり方を問うような講座でした。

私自身は、あがり症で、人前で話をすることが苦手なのですが、
ファシリテーションということ自体にはとても関心があり、
そのためのプログラムをつくることにさらに関心があります。

2つのタイプの違う講座を受けてみて思うのは、どちらも面白く、
学びをいただいたと思っていますが、
私のかゆいところに手が届かなかったということです。
これは、講座の内容の問題ではなく、私自身の問題ですね。

それはさておき、2つのタイプの講座を受講した結果、
思ったのは「なんだか大切なことは『赤毛のアン』な気がする」ということです。

私は『赤毛のアン』の愛読者でもなんでもないのですが、
とっても好きな箇所があります。
それは、喉頭炎になった友達の妹をアンが看病する話の中の一場面です。
両親が遠くにお出かけしている時に妹が熱を出し、
どうして良いかわからずアンに助けを求めたダイアナ。
アンがダイアナの家に駆けつけると、お手伝いさんはおろおろするばかりで、
お湯のひとつもわかしていなかったという状況。
それを目にしたアンが言います
「あなたの気を悪くはしたくないけど、あなたに少しでも想像力があったなら、
こんなことはもうとっくの前に気がつくはずだと思うわ」
正確ではないと思いますが、このシーンが好きで、ふとしたときに思い出します。

タイプの違うファシリテーションの講座を受けて、
「で、結局大切なことってなんだろう」と考えてたときに、
「あの時のアンのいう想像力なんじゃないのかなぁ」と思ったわけです。
目の前に熱を出している人がいて、その人に今何が必要なのかを想像できる力。
当たり前のようでいて、それができていない場合も結構あるのではないかと
自分自身のことを考えてみて思います。
ファシリテーションということについても、
根底に必要なのは、そんな想像力なのではないかと思ったわけです。

そう考えながら私のまわりを見まわしてみると、
創業とか、起業とか、働き方云々とか、イノベーションとか、
そしてファシリテーターとか、
時代を彩るようなキラキラした言葉が飛び交っています。
キラキラした人達が人生を謳歌し活躍しているようにも見えます。
そんなキラキラを見て、素敵だなぁと思います。
同時に、なんとも言えない違和感を覚えます。
どうしてそんな違和感を感じるのだろうと思いめぐらせてみると
「あ〜、あの時のアンではないんだなぁ」と思いました。
大切なことが抜けているような、地に足がついていないような
そんな違和感だと思いました。
キラキラした場で語られるのは創造や創造力であることが多いのですが、
私は、そこに、赤毛のアンの想像力が抜け落ちているような、
大切にされていないような印象を感じていたわけです。想像力って、もしかすると人を謙虚にする、そんな力もあるのかもしれない。
ファシリテーションっの講座を受けて、赤毛のアンを思い出し、
想像力って大切だなぁと改めて思いました。

あれ?書いてたら棚卸し。

たまに顔を出すコワーキングスペースは、
いろいろな講座を行っているので、ごくたまに参加します。

そこで行われているのは、SNSの講座やブログ講座、ファシリテーションや
デザイン講座ほか。コワーキングスペースなだけあって、
創業を意識した内容になっているような印象があります。

先日、ひさしぶりにそこでの講座に参加しました。
私がこれまで参加したその場での講座は、
いずれも一方的に講義を受けるのではなく
必ず参加者同士の自己紹介時間や、講師からの問いに対する自分の考えを
ペアで意見交換するなど、ワークショップ的な要素が盛り込まれていました。

で、意見交換をしてみると、特に女性の場合、「幸せな女性を増やしたい」とか「人々を笑顔にしたい」とか、立派な目標をおっしゃる方が多く、
やる気がみなぎってる、自信いっぱいに見える人が多い気がします。
私はといえば、そんな立派な目標はなく、自分のふりかえりとか、
ちょっと学んでみたいなぁくらいな軽い気持ちで参加しているため、
そんな人達を目の当たりにすると、
すごいなぁと、ただただ圧倒されるばかりです。

考えてみれば、人見知りであがり症で、自分に自信がないために
いかせなかったチャンスもたくさんあったような気がします。
ある意味ギラギラした、自分をアピールできる人が眩しくてしかたありません。

反面、どうもそういうギラギラが苦手でもあります。憧れるけど苦手なんです。
ギラギラしないで自分をアピールできるようになりたいなぁ。
では、そのためにどうするか。
まずは、自分の棚卸しから始める必要があるんだろうなぁと思っています。
では、どんなふうに棚卸しをすればよいのか。。。

・・・と、ここまで書いて思い出しました。
先日受講したデザインの講座で、問われました。
「あなたの事業のコンセプトは何ですか?」
正直なところ、これを聞かれるのが一番困ります。
人様の、私以外の人の事業や云々のコンセプトを組み立てたり、発見したり、
整えたり、言語化する、そのサポートを行っている私の事業のコンセプトは、
コンセプトがないことです。色に例えると無色。
そんなふうに考えているところがあります。

あれ、もしかして、これってギラギラできていないことと
何か関係ありそうな気がするぞ。
もしや無色を意識しているからギラギラしないのか?!
そうなのか、自分?!
憧れているなんて書きながら、ギラギラになりたいなんて書きながら
心の底では、そうは思っていなかったということなのか?!
なぁんだ、そういうことかぁ。。。
と、このブログを書きながら腑に落ちました。
とんだ独り相撲な内容になっていますが、
今日1つ、自分の棚卸しができたような気になっています。
ブログを書くって、そんな効果もあるんですね。 

人の本質を見ようとしたら自分を見つめ直すことにつながった。

ある方からご縁をいただき、現在、出版本の編集に携わらせていただいています。
実際に出版されるのは、まだまだ先の話です。
これまで、広報物の編集作業は経験ありましたが、
販売される本の編集というのは初めてのことで、
なんとも言いがたい高揚感があります。

本の内容はここでは差し控えるとして、
この作業を行っていくなかで、
とても不思議な感覚を覚えたので備忘録として記します。

編集ということは、例えば著者である方の考えにふれなければできません。
その方の考えや書かれているものを自分の中で咀嚼しながら、
どう組み立てるのが良いのかを考える。
もちろん私一人で考えるわけではなく、
著者の方とやりとりしながら、その方のお考えを前提として考えます。

もしかすると鳥の視点で俯瞰して、客観的にその方の考えや思いを受けとめ、
編集していくことが良いのかもしれませんが、
不器用な私は、どこかでその方に憑依するようなそんな感覚があります。
そのうえで客観視するという、そんな感じで作業を進めてきました。

著者の方のお考え、思いを深堀りする、そんな作業を繰り返していたのですが、
これがなぜか自分を深堀するというか、自分を見つめ直すことにつながったような気がしています。
自分ではない人格について考え、見つめていたのに
それが結果、自分を見つめ直すことにつながるとは、
作業を始めた当初は思ってもみませんでした。

結果、自分のダメなところ、無意識のうちにかぶっていた鎧や
ついてしまった垢のようなものがとれるような、そんな感覚を覚えました。
こういうのをメンタルブロックが外れたというのかしら。。。

3年くらい前に、ファシリテーションプロフェッショナル講座だったか、
そういうのを受けた時に、スキルではなく、あり方を問われ、
もはやこれはファシリテーション講座というより自己啓発講座ではないかとさえ
思うような内容で、自分の問題点をつきつけられました。
その時は、なんとなく感じたような、わかったような気がしていたのですが、
じつはぜんぜんわかっていなかったことを、今更ならが実感し、今になって、
あの時できなかったことができるようなになったような感覚を覚えました。

自分自身を問われ、自分を省みるように力を入れていたことが
逆に自分を頑なにしていたのかどうかわかりませんが、
自分以外の人の本音、本質に向き合おうとした結果、
それが自分と向き合うことになったとは、なんとも面白いなぁと思っています。

この編集という作業、苦しいですけど、とても楽しい。
もっともっとそういう仕事を増やしていきたいなぁと思うこの頃です。

井の中の蛙。

お酒は飲んでも飲まれるな。
今のところお酒に飲まれたことはないのだけど、
SNSに飲まれてはいけないなぁとつくづく思う。
なぜなら、SNSって開かれているようで閉ざされた場のように感じるから。

SNSの詳しい技術やアルゴリズムについて、私はほとんどわからないけど、
そこで繰り広げられるのは、自分が選んだもしくは自分が選んだ人に関連したものごとで、ある一部の限られた世界だと思う。
そんなこと言わずもがな、なのだろうけど、
それを自分の良いように勘違いしてしまうことって、
案外あるのではないかと思うのだ。

SNSの世界ではないが、
例えば、ある界隈で話題になったり、もてはやされたりすると
自分がまるで「できる人」になったように勘違いしたり、
自分がまちを、社会を動かしているような感覚に
陥ることもあるのではないと思う。
そういう人と実際に仕事をしてみると
「この人、全然できないじゃないっ!!」って残念に思うことがある。
もてはやされていることと仕事がキチンとできることは違うのだ、と、
つくづく感じている。
そんな時は、自分のことを棚に上げて「あぁ、井の中の蛙にならないでね」と、
祈る気持ちにすらなる。

今更感のある言い方をすれば、今は、インターネットがつながり、
日本だけでなく世界とつながることができるし、
個人がどんどん自分で自分を発信できる時代だ。
何かで突然話題になり、注目が一気に拡がることもある。
もてはやされて、人が集まってきて、
「自分が世界」と勘違いしてしまうことだってある。
だけどね、きちんと仕事ができる力がともなわないと、
一過性の流行として消費されてしまう結果になりかねない。
もてはやされている時こそ、そんな感覚を持っておくことが大切だと思う。

きちんと仕事ができる力とは、特別なことでもなんでもなく、
例えば、計画的に仕事を進めることができるとか、
チームで行う場合は「報・連・相」ができるとか、
そもそもその仕事の意図をキチンと理解できているとか、そんなことだ。
そういうことをおろそかにすることが重なると、
自分の信用を落とすことにつながったり、
相手にストレスを与えて
「あぁ、この人とは仕事したくないなぁ」という不満を生んでしまう。

トンチンカンなことを書いている気もするが、
今自分が見えている世界、自分が身をおいている場が全てではない、
という感覚を持っていたい。
自分を客観的に見るスタンスを忘れないようにしたい。