「スタンス」カテゴリーアーカイブ

そんなこともあるよね。

2019年が明けすでに1月も20日が過ぎた。

2018年のうちにしたかったけど、できなかったことが3つある。
いやいや3つどころではないのだけど、
直近でできなかったことだけあげると3つというだけだ。
そして、始めたい!と思ったけど、始められなかったことが1つ。
これも直近での数だ。

まぁ、しかたないよね、そんなこともあるよね、
と受け流すくらいの気持ちで2019年を迎えた。

以前の私だったら、できなかったことを悔やんだり、
心のどこかで勝手にうしろめたさを感じていたのかもしれないけど、
そんなこともあるよね、という気持ちになることができるようになったのは
浅生鴨さんのおかげだと勝手に思っている。
正確にいえば浅生鴨さんと浅生鴨さんのエッセイ『どこでもない場所』
のおかげである。
この感覚というか、そういう気持ちを覚えたのは2018年の一番の収穫だ。

気楽に、楽しく、ふかく、ゆるやかに、のびやかに
2019年を面白い1年にしたいと思う。
できなかったとしても、そんなこともあるよね、でいきたい。

欲望

奇をてらうわけでもなく、
たんたんとたんたんと書いていく。
たんたんとたんたんと書かれた言葉の中に
やわらかさとやさしさと
ちょっぴりのユーモラスが
ほのかに感じられて
「これ好きっ!!」じゃなくて
「なんだかこの文章好きだなぁ」って思われる。
そんな文章を書くことができるようになりたいなぁ。

ファシリテーションと赤毛のアン

5年くらい前からファシリテーションということに興味を持っています。
ここ2、3年で2つのタイプのファシリテーション講座を受講しました。

1つは、いわゆるノウハウを学ぶような講座。
話し合いの場で、合意形成や相互理解を促したり、
あるいは混沌としたやりとりを整理したり、
そこから何か方向性や考え方、やり方などを見つけていく、
その方法の概要を教えてくれたような、
あくまでも概要なんですが、そんな講座でした。

もう1つは、前に少し書いた、これ自己啓発講座じゃないの?っていうような、
ノウハウではなく、ファシリテーターのあり方を問うような講座でした。

私自身は、あがり症で、人前で話をすることが苦手なのですが、
ファシリテーションということ自体にはとても関心があり、
そのためのプログラムをつくることにさらに関心があります。

2つのタイプの違う講座を受けてみて思うのは、どちらも面白く、
学びをいただいたと思っていますが、
私のかゆいところに手が届かなかったということです。
これは、講座の内容の問題ではなく、私自身の問題ですね。

それはさておき、2つのタイプの講座を受講した結果、
思ったのは「なんだか大切なことは『赤毛のアン』な気がする」ということです。

私は『赤毛のアン』の愛読者でもなんでもないのですが、
とっても好きな箇所があります。
それは、喉頭炎になった友達の妹をアンが看病する話の中の一場面です。
両親が遠くにお出かけしている時に妹が熱を出し、
どうして良いかわからずアンに助けを求めたダイアナ。
アンがダイアナの家に駆けつけると、お手伝いさんはおろおろするばかりで、
お湯のひとつもわかしていなかったという状況。
それを目にしたアンが言います
「あなたの気を悪くはしたくないけど、あなたに少しでも想像力があったなら、
こんなことはもうとっくの前に気がつくはずだと思うわ」
正確ではないと思いますが、このシーンが好きで、ふとしたときに思い出します。

タイプの違うファシリテーションの講座を受けて、
「で、結局大切なことってなんだろう」と考えてたときに、
「あの時のアンのいう想像力なんじゃないのかなぁ」と思ったわけです。
目の前に熱を出している人がいて、その人に今何が必要なのかを想像できる力。
当たり前のようでいて、それができていない場合も結構あるのではないかと
自分自身のことを考えてみて思います。
ファシリテーションということについても、
根底に必要なのは、そんな想像力なのではないかと思ったわけです。

そう考えながら私のまわりを見まわしてみると、
創業とか、起業とか、働き方云々とか、イノベーションとか、
そしてファシリテーターとか、
時代を彩るようなキラキラした言葉が飛び交っています。
キラキラした人達が人生を謳歌し活躍しているようにも見えます。
そんなキラキラを見て、素敵だなぁと思います。
同時に、なんとも言えない違和感を覚えます。
どうしてそんな違和感を感じるのだろうと思いめぐらせてみると
「あ〜、あの時のアンではないんだなぁ」と思いました。
大切なことが抜けているような、地に足がついていないような
そんな違和感だと思いました。
キラキラした場で語られるのは創造や創造力であることが多いのですが、
私は、そこに、赤毛のアンの想像力が抜け落ちているような、
大切にされていないような印象を感じていたわけです。想像力って、もしかすると人を謙虚にする、そんな力もあるのかもしれない。
ファシリテーションっの講座を受けて、赤毛のアンを思い出し、
想像力って大切だなぁと改めて思いました。

井の中の蛙。

お酒は飲んでも飲まれるな。
今のところお酒に飲まれたことはないのだけど、
SNSに飲まれてはいけないなぁとつくづく思う。
なぜなら、SNSって開かれているようで閉ざされた場のように感じるから。

SNSの詳しい技術やアルゴリズムについて、私はほとんどわからないけど、
そこで繰り広げられるのは、自分が選んだもしくは自分が選んだ人に関連したものごとで、ある一部の限られた世界だと思う。
そんなこと言わずもがな、なのだろうけど、
それを自分の良いように勘違いしてしまうことって、
案外あるのではないかと思うのだ。

SNSの世界ではないが、
例えば、ある界隈で話題になったり、もてはやされたりすると
自分がまるで「できる人」になったように勘違いしたり、
自分がまちを、社会を動かしているような感覚に
陥ることもあるのではないと思う。
そういう人と実際に仕事をしてみると
「この人、全然できないじゃないっ!!」って残念に思うことがある。
もてはやされていることと仕事がキチンとできることは違うのだ、と、
つくづく感じている。
そんな時は、自分のことを棚に上げて「あぁ、井の中の蛙にならないでね」と、
祈る気持ちにすらなる。

今更感のある言い方をすれば、今は、インターネットがつながり、
日本だけでなく世界とつながることができるし、
個人がどんどん自分で自分を発信できる時代だ。
何かで突然話題になり、注目が一気に拡がることもある。
もてはやされて、人が集まってきて、
「自分が世界」と勘違いしてしまうことだってある。
だけどね、きちんと仕事ができる力がともなわないと、
一過性の流行として消費されてしまう結果になりかねない。
もてはやされている時こそ、そんな感覚を持っておくことが大切だと思う。

きちんと仕事ができる力とは、特別なことでもなんでもなく、
例えば、計画的に仕事を進めることができるとか、
チームで行う場合は「報・連・相」ができるとか、
そもそもその仕事の意図をキチンと理解できているとか、そんなことだ。
そういうことをおろそかにすることが重なると、
自分の信用を落とすことにつながったり、
相手にストレスを与えて
「あぁ、この人とは仕事したくないなぁ」という不満を生んでしまう。

トンチンカンなことを書いている気もするが、
今自分が見えている世界、自分が身をおいている場が全てではない、
という感覚を持っていたい。
自分を客観的に見るスタンスを忘れないようにしたい。