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〘浅生鴨さんに聴きました〙わたしが感じた浅生鴨さんのこと – その1-

本当に現れた浅生鴨さん (ながい前書き)
「わたしごときが、、、」 わたしの中にはいつもそんな感覚があります。
わたしごときがお声がけして良いのだろうか。わたしごときがご一緒して良いのだろうか。自分に後ろ向きなそんな感覚。自分に自信のないわたしがそこにいて、そうやってつかみきれずに終わったチャンスがあるような気がします。

作家であり、広告や番組の企画・制作をしていたり、元NHK_PRの中の人1号としても知られる浅生鴨さん。わたしが浅生鴨さんのことを知ったのは、「ほぼ日刊イトイ新聞」です。NHK_PR時代のつぶやきは正直なところほとんど知りませんが、糸井重里さんに憧れて地方の片田舎でコピーライターとして就職したことのあるわたしにとって、ときおり「ほぼ日」でお見かけする浅生鴨さんは遠い世界の憧れの人たちの一人でした。

今年の3月に「ほぼ日」であった企画「書くことの尽きない仲間たち 車で気仙沼まで行く。」で書かれていた浅生鴨さんの「せめて、その日まで」というタイトルの文章を読んで、「あぁ、この人、なんだか好きだなぁ」と浅生鴨さんを勝手に意識するようになりました。
今年の夏くらいから浅生鴨さんのnoteを読むようになり、じわじわと私の中に浅生鴨さんの「ものの見方、考え方、好きだなぁ」がたまっていき、「こんな文章を書けるなんてッ!!」という、嫉妬のような、うらやましいような気持ちも、あわせてたまっていきました。

7月の終わり頃、浅生鴨さんがnoteで「9月に新刊のエッセイ集を出す」こと、「9月に車で熊本まで行こうと考えている」こと、そして「アマチュアのみなさんからの取材を受けてみたいなぁ」ということを投稿されているのを読み、「えーーーーーーーーーーーーっ!アマチュアでもいいの?!ねぇねぇいいの?!」と、なかば自分が取材するかのごとく「ヒャッホー!」と心のなかで叫んだものです。しかし、「わたしごときが、、、」といういつもの癖が出て、取材させてくださいっ!と申し出る勇気が出ないまま、エッセイが発売になる9月になっていました。

9月9日。アマゾンで注文していた浅生鴨さんの初のエッセイ集『どこでもない場所』がようやく届きました。本の帯の表面には「迷子でいいのだ」と書かれています。本を裏返すと「方向音痴への道【総括】」として「目的地さえなえれば方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い。」とあります。装丁も紙質もとても好きで、ワクワクしながらページをめくりました。

クリスマスのプラハで迷った挙句に酢タコに行き着く話。ホテルの朝食バイキングでお客の朝食を仕切るおばあさんの話。まるで落語を聞いてるような歯医者、ではなく口腔外科医の話。「はじめに」を含めて4つのお話を読んだところで、いったん続けて読むのをやめました。読み終えるのがもったいなくなったからです。

クスっと笑えて、ほんわかする。からだにすぅ〜っとしみ込むように文章が心地よい。言葉の使い方とか、「おお、ここでこういうですます調を入れるんだ」という文の組み立て方とか、あぁもうたまらなく好きだ! 私は浅生鴨さんの文章が好きなのだ!!と誰かに叫びたくなりました。

そしてその夜。「わたしごときが、、、」なんて言ってられない、このチャンスを逃したら二度とチャンスはこないぞ自分!と、一人で熱くなって取材の申し込みメールを書き、エイヤァ!と勢いで送信ボタンを押したのでした。ビューンという音をさせながら、わたしのパソコンから旅立った取材申し込みメール。送った1秒後には、すでに不安になっていました。「いやいやこんなどこの誰ともわからない者からの取材なんて受けてはもらえないだろう。そもそも東京までは行けないけど、旅の途中の都合の良いところで取材をさせてほしいなんてズウズウしいお願いを、しかも発信力のない一個人の取材を受けてもらえる道理がない」と、自分が申し込んだことを忘れようとしていたのですが、なんと、あっさり取材のOKをいただきました。慌てました。いや、とっても嬉しいのだけど、どうしたら良いのだろうと慌てたのでした。

9月20日夕方。約束の場所は、入り口がガラス張りのあるお店。入ってすぐのカウンターに座って浅生鴨さんを待っていました。18時に私のいるまちに到着予定とのことだったので、お店に到着するのは、それから30分くらいかかるだろうと予測していました。「迷われませんかねぇ、ここに辿り着かれるだろうか…」と「どこでもない場所」を手にしてお店のオーナーさんが心配しています。「地図をお渡ししているので大丈夫だとは思いますけど…」と答えながら、もしたどり着かなかったら、それもそれ、と自分を落ち着かせるように心の中でつぶやいていました。

18時数秒前。店の前を通りすぎる人たち。なんとなくその人たちを見ていると、あっ!!!!! インターネットで見たことのある風貌の男性がスマホ片手にお店の前を急ぎ足で通り過ぎている!! 鴨さんだっ!! カウンターの背の高めの椅子から転げ落ちるように降り、わたしは慌ててお店のドアを開け、小走りで男性に近づきました。なんと呼べばいいのだろうと瞬間的に迷いましたが、なぜか小声で「あそう、かもさん?」と声をかけました。ひらがなで呼びかけるのがやっとでした。

「あぁ、すみません、お店ここだったんですね。遅れてすみません〜」 ぬいぐるみのようなほんわかオーラに包まれた浅生鴨さんが恐縮しながらお店に入られ、「あのぉ、お手洗いおかりしていいですか?」と、一目散にトイレに入られました。

約束していたほぼ18時に到着された浅生鴨さん。ぜんぜんポンコツじゃない! お目にかかる約束はしていたものの、果たして本当に会えるのだろうかと頭をかすめていた自分を反省し、現実として動いている本物の浅生鴨さんが本当に自分の目の前に現れたことに、取材をお願いしたわたし自身がびっくり!!でした。

こうして始まった浅生鴨さんへのインタビュー。初のエッセイ集『どこでもない場所』でどうして迷いをテーマにしたのか。受注体質なのに素人からすると華やな仕事に辿り着いているのはなぜなのか。本当はしたいことがあるのではないか。こんなことイヤだなって思うことはどんなことなのか。どんな自分でありたいと思っているのか。こだわっていることはどんなことなのかなど、何の脈絡もなく、ただただ聴きたいことを質問しました。つたない質問にも1つ1つゆっくりと丁寧にお話くださいました。

インタビュー前日からドキドキし、本人を目の前にさらにドキドキで始まったインタビューでしたが、なぜか初めて会った人のような気がしなくて、ドキドキするのに癒される、とても心地よくて楽しい時間をプレゼントしてもらったようなインタビューでした。

気づく人!
どうして発信力のない、どこの馬の骨ともわからない者のインタビューを受けてくださったのだろう。取材OKをいただいてから不思議でならなかったことを聴いてみました。

「そうですね、なんだろうなぁ、noteみたいなのができて、いろんな人がいろんなことを書き始めてるじゃないですか。それはある程度訓練を受けたプロの人も書いているし、本当に書きたいという思いで書いている人もいて。いろんな人が書いている時に、たぶんインタビューって1回できるようになると、まわりの人に聴いたりだとか、いろんな聞き書きをして、どんどんお話はふくらむんだけど、最初どうやっていいかわからないし、何を聞いていいかもわかんないしっていう。でも、いきなり誰かにインタビューって急にはできないだろうから、じゃあせっかくの機会だし、練習台になればいいんじゃないかなって思って。そうしたら何かやりたいって思ってる人が、ぼく相手にインタビューの練習をして。ぼく、インタビュー、すごい下手なんです。下手っていうか、するのは上手なんですけど、インタビューされるのはすごい下手なんですよ。だから僕で練習するとあと絶対ラクなはずだから。そうやって書いてもらえれば、それはそれで本の宣伝にも多少なるだろうし。なんか、あんまり深くは考えてないんですけど。やりたい人がいたら、練習台になるよくらいの、そんな感覚なので。それに発信力ないっていっても、まわりに家族がいて、友達がいて、知り合いがいて、その人たちに『こんな人にこんなことやったんだよ』っていうのは、伝わるので。だから発信力ないわけではないので大丈夫です」

まさか練習台とは、考えてもいませんでした。ありがたい話です。インタビューされるのがすごく下手って言われてましたが、わたしが次の質問をするまでに少し沈黙が生まれても待っていてくれる。そのときの空気がほんわかしていて、焦らずに質問をすることができました。一緒にいて沈黙の時間が苦しく感じられないというのは、インタビューする側にとっては、すごく安心できることだと思います。もしかすると意識的にしているわけではなく、そういうキャラなのかもしれませんが、わたしには、とても居心地よくお話を伺うことができる方でした。

『どこでもない場所』は、20の迷エッセイ集(本の帯に記載)が載っています。どれもこれも面白いお話で、エピソードがいっぱいあるんだなぁと、うらやましく思いました。テレビなどで笑福亭鶴瓶さんが自分に起こったことを話されるのを見ていて、「この人のまわりでは、面白エピソードがいっぱいあるんだなぁ」と感心していたのですが、『どこでもない場所』を読んで、浅生鴨さんも笑福亭鶴瓶さんなんだなぁと思ったので、素直にそう聴いてみました。

「でも、たぶん、探せば誰にでもあるはずで。そこをいちいち気づいて覚えてるか、なんとなく記憶のなかで埋もれちゃったかの違いじゃないかなぁという、そんな気はするんですよ。ここに書いている話って、本当にあるあるというか、誰もが、あぁ、そういうことあるよねって話しか書いてないので。みんなが共通して体験していることを、僕は僕のフィルターをとおして『僕の場合は、こうでした』とやっているけど、なんだろう、例えば、美術の先生と一緒にオーストラリアに行く話にしても、もうダメだって次々トラブルがおきて、諦めかけたけど、うまくいったって話は誰にだってあることで。いやぁたぶんそれは、えっと、まぁ書き方の問題もあるかもしれないけど。ドラマチックになるように書いてるからで、誰でもそういうのあるだろうし。なんだろうなぁ、例えば、学生の頃の文化祭で、みんなでわぁーって気持ちが盛り上がって、終わったあとに、ちょっと寂しくなるみたいな、そんな感覚みたいなものもみんなあるだろうし、『その感覚を僕はこのエピーソードで紹介します』みたいな感じでやっているだけなので。みんながそれぞれ、いろんな場面で感じていることを、僕は僕の覚えているやり方で書いているっていう。たぶん誰でも書けることなんですよね」

えーー、そうでしょうか?

「えっと、たぶんね、気づく、だけだと思うんです。ほんとうに、それだけのこと。ふだんからそういうのに気づきやすいというか、目の前で起きていることに気づく人と気づかない人がいて、僕はわりと、そこが気になっちゃうから、気づくっていう。たぶんそれだけのことで。あと、気づいたあと、勝手にそこからいろんなことを妄想してるんで。ほんとうにそれだけのことのような気がするんですよね」

どんなことに気づいて、どんな妄想をしているのか、気になります!

「なんだろうな、例えば、今こうやって話をしながら、ぼくは、ここ(テーブル)に傘がかかっていることが、なんで傘立てに立てずに、そこにかけてるんだろう?とかって思うわけですよね」

(その日、午前中に雨が降っていて、わたしは傘を持っていたのですが、その傘をお店の傘立てに立てず、テーブルにかけていました)

「もしかして、このお店には、傘立てがないんじゃないのか。なんで傘立てがないんだろう、とか。じつは、昔ここのオーナーは、傘立てで大失敗したことがあって、みたいなことをずっと妄想で考えてるんです。と、同時に、それは、本当は傘がかかっているように見えてるけど、テーブルとくっついたインテリアとしての飾りで、傘持ったらテーブルごと動くのかもしれない、とか。というようなことも考えてるんですよね。ただ、それだけなんですよ。そういう余計なことを、ずっと考えているから覚えてるっていうか」

自分の頭の中で考えているから通り過ぎずに覚えているということでしょうか。

「うん、そう。だから、なんかあったときに、例えば、それはエッセイじゃないんですけど、小説のなにかを書くときに、登場人物が傘をここにピッてひっかけたりっていうのを1シーンとしてぼくは書くんですけど。それは、こういうのを覚えてるからで、これを覚えてなかったら、普通に傘立てに立てて入ってくと思うんですけど、傘立てに立てずにここにかけたら、それはその人の『あ、そういうことをする人なんだね』っていう特徴づけになっていく。たぶん、いろんなことを細かく見て覚えてるんだと思うんですよ」

ずっとそうやって気づいたり、妄想しているんですか?

「そうですね。ずっとそうですね」

それは、いろんなことが同時にできる人じゃないですか?

「いや妄想しかしてないんで(笑)そのぶん現実のほうがおろそかですから」

『どこでもない場所』のページをめくっていくと、ところどころに薄グレーのアミのかかったページがあって、そこに白いフキダシがあります。その中には、例えば「あなたの笹の葉はどこから?」とか「コカコーラの雄と雌をいっしょにすると…」とか、不思議なことが書かれています。これ、浅生鴨さんの妄想のいくつかなんだろうなぁ。

人の講演を聞いているとき、講演者の話を起点にわたしも妄想してしまいます。でも妄想が始まると、もう講演をしている人の話はぜんぜん頭に入ってきません。

「僕もそうですね。もう聞いちゃいない気がします。落語とかを聞きに行っても(妄想しはじめると)ぜんぜん聞いてなかったりしますから。でも、その声に圧倒されて、その声からイメージだけはずうっと浮かんでいくんです。で、また途中でスッと落語のほうに戻って。そんな感じかなぁ」

子どもの頃からそうだったのでしょうか。どんな子だったのでしょう。『どこでもない場所』に子ども頃に本を読んでいた話がありますが。

「子どもの頃から、わりとそんな感じですね。素直ないい子だったと思いますけど(笑)普通の子だと思うんだけどなぁ。本は、ぼく、おもちゃがなく、買ってもらわなかったので。レゴと本だけだったんですよ、うちにあったものが。で、そうすると、本は読むしかなくて。あとレゴってね、空想するしかないじゃないですか。レゴで恐竜つくっても、消防車つくっても、どこか想像でおぎなわないといけないので、たぶん、ずっとそういうことをやってたからだと思うんですよね」

癖なんですね。

「癖ですね」

ちなみに、さっきの、テーブルを傘にかけていた理由は、雨がやんだために傘立てに傘を立てておくと忘れて帰りそうな気がしたから。実際にそうやって忘れた経験があるのでテーブルに傘をかけていました。そのことを浅生鴨さんに明かすと。

「なるほど!傘立てだと忘れますよね。なるほどなぁ。そうですね、先回りして自分が忘れないように…。ぼく、いちいち言ってもらわないとぜんぜんダメだから、ほんとダメなんです…」

自分のことをダメだと言う浅生鴨さんのその雰囲気に、ほんとうに自分をダメだと思っているんだなぁということがしみじみ伝わってきて、なんだか「ダメでもいいよ、ポンコツでもいいよ、こんな素敵な本を書いてくださるんだからっ!!」と、思わず言いそうになりました。

浅生鴨さんが妄想する人なんだろうということは、なんとなく感じてはいましたが、「気づく」ということは、わたしにしては想像だにしなかったことだったので、とっても新鮮で、ハッとしました。ただ妄想しているのではなく、何かに気づいて妄想している。それは、ほんの些細なことなのだろうし、ほかの人が何もひっかからず、通り過ぎてしまうようなこと。その1つ1つに気づいて妄想する。まず気づくことが、浅生鴨さんなんだなぁ。

気づく人と気づかない人、どっちが良くて、どっちが良くないとかではありませんが、わたしが大切にしたいのは気づくほうのことで、それをしぜんとやっていて、そうやって浅生鴨さんが気づいていることの視点が(あぁ、視点というとなんだか形式的でいやなんですけど)、ものの見方や思い方が、わたしは好きなんだろうなぁと、自分が浅生鴨さんを好きな理由が1つわかったように思いました。

さて、このあと、『どこでもない場所』のテーマについて、言葉についてと話は続きますが、今日はここまで。つたない文章、読みにくいであろう構成や見た目の長文を読んでくださり、ありがとうございます。
(お話聴くのに夢中で写真撮るのを忘れたポンコツなわたしです)