仏眼を持つオンナ。

このブログ。ヘッダーのタイトル文字と記事のタイトル文字の大きさや書体と本文の書体と行間を変えたいのだが、やり方がわからずにそのままになっている。
もうこれは、プロに頼むしかないのかなぁと自分で手を入れるのをあきらめつつあるのだった。

さて、先日、生まれて初めて手相占いというものをしてもらった。
お手伝いしている手仕事チャリティーイベントになぜか手相占い師さんが出店されていたのだ。
おしゃれな手仕事ワークショップやおしゃれな食べ物飲み物のマルシェのなかで異彩をはなっていた手相占い師さん。怪しげだ。
雑誌やテレビやインターネットの占い(しいたけさんとか)は見るのだが、生で占い師さんに占ってもらった経験のない私は、興味半分怖さ半分で、しばらく占ってもらうことを決めきれなかった。がしかし、意を決して占ってもらおうとそのコーナーに行ってみると、なんと9人待ち!! しかも、予約がわりのトランプカードを配っているらしく、それも残り1枚という人気ぶり。なんとか最後の1枚のトランプをゲットした

それから何時間たったのだろうか。占い順番ラストの私の番がやっときた。怪しげな占い師さんの前に座ると、あらあらなんともお優しい方で、いっきに気持ちがなごんだ。
で、私の手相である。どうやら仏眼というものと太陽線というものがあるらしい。これは良い相らしく、手相から見てわたしは成功を約束されているらしい(笑)
何を持って成功なのかはわからないのだけど、とにかく成功を約束されているのだから自分の未来は明るいと信じ込もうではないか!

そして注意事項として教えてくれたのが、自分に自信がないことらしい。当たっている!当たっているよ占い師さん!! 私は自分に自信がないのだ、自信なんて持てないのである。「人のことは気にしないで、おおらかな気持ちで、自分を信じて自分の道を歩めばいい」とアドバイスしてくださった。
そして、「自分の手相を見て、私は成功するんだと自信を持ってください!自信がないときは自分の手相を見てください! 」と力強い言葉をかけてくだっさった。

で、仏眼。仏の眼と書いてブツガン。仏像好きの私には、ありがたく、うれしく、ファッホーとなる文字。なんとも縁起の良さそうな、不思議な力でも備えているような、水戸黄門さまの印籠のような響きがあるではないか。仏眼をさずけてくだっさって、こ先祖さま、おじいちゃん、おばあちゃんに感謝感謝である。

というわけで、私は成功するらしい。
そしてこれからは、自分の手相を見ることが増えるかもしれない。
私がもし自分の手のひらをジッと見ている場面に遭遇したら、「コイツ自信を持とうと念じてるんだな」と察していただき、そっと見守っていただければ幸いです。

思考した1月。たのしくなあれ2月。

のろまな亀の歩みのように終わったような気がする2019年1月。
亀のような歩みのなかで考えることも多かったように思う。

一昨年からお世話になっている先生と会い、お話を聴き、思いを巡らすことが多くなった1月だった。まだまだ解は出せないのだけど、永遠に解は出せないのかもしれないのだけど、一歩でも1ミリでも想いを、暗黙知を、言葉にしたいという気持ちが今まで以上にむくむくとし、そのことにわくわくもした2019年の1月だった。

ずっと気になっていた編集という仕事。その道のど真ん中にいる方のお話を聴き、言葉をかわすこともできた月でもあった。心のどこかで私の仕事は、私がしたいことは翻訳ではないかと思っているところがあり、翻訳と編集ということがもしかすると私の仕事を表す重要な言葉なのではないかとぼんやり思っていた。以前は編集といえば松岡正剛さんと思っていたのだけど、今は注目されている編集者さんが何人もいて、そんな方々が出版されたり講演されたりで引っぱりだこのように見受けられる。これもまた時代を象徴する、今の時代が求めていることなのだろうと思う。

先生といい、編集者の方といい、その道で真摯にきちんとお仕事をされている方は奥が深いとつくづく感じた1月でもあった。全国区の方だからすごいということではないのだろうけど、その道で知られる人は、それだけの理由があるわけで、地方で声高に語るだけの人とは違うということを話を聞くと思い知らされる。安直にひとことでいえば本物は違う、のだ。関東のすごいところは、そういう人がうじょうじょいるということなのだろうと思う。面白い人、本物がたくさんいるからその化学反応で面白いことが生まれ、本物が育つ。本物に鍛えられた人たちがまた本物になっていく。その連鎖がうまれる構造があること自体がすごいことなのだろうと思うのだ。地方創生とかなんとか言われながらスタートアップイベントやそのほかいろいろなイベントや事業が行われているのだけど、本物の連鎖みたいなものがまだ起きていなくて、ニセモノっぽいヒトモノコトばかりがプツプツとうまれては勘違いに包まれた小さな世界の中で井の中の蛙になっている。そんな印象がある。ニセモノもそのうち本物へと育っていけば良いのだから、へんな縄張り意識はとっぱらって本物の連鎖に育つように心をオープンに発想をひろくすれば良いのになぁ。枠組みにとらわれすぎてはいないだろうか。そんなことが頭をかすめた1月でもあった。

否定からはいって可能性の面白さの枠を決めつけるのはもったいない。まずは肯定からはいってみようよ!と自分の中の壁をわたしなりに外すことを意識してみたら、あらあらなんだか不必要なこだわりがちょっとはなくなったような気がする2019年の1月が終わった。

さて2月。私の2月たのしくなぁれ。

そんなこともあるよね。

2019年が明けすでに1月も20日が過ぎた。

2018年のうちにしたかったけど、できなかったことが3つある。
いやいや3つどころではないのだけど、
直近でできなかったことだけあげると3つというだけだ。
そして、始めたい!と思ったけど、始められなかったことが1つ。
これも直近での数だ。

まぁ、しかたないよね、そんなこともあるよね、
と受け流すくらいの気持ちで2019年を迎えた。

以前の私だったら、できなかったことを悔やんだり、
心のどこかで勝手にうしろめたさを感じていたのかもしれないけど、
そんなこともあるよね、という気持ちになることができるようになったのは
浅生鴨さんのおかげだと勝手に思っている。
正確にいえば浅生鴨さんと浅生鴨さんのエッセイ『どこでもない場所』
のおかげである。
この感覚というか、そういう気持ちを覚えたのは2018年の一番の収穫だ。

気楽に、楽しく、ふかく、ゆるやかに、のびやかに
2019年を面白い1年にしたいと思う。
できなかったとしても、そんなこともあるよね、でいきたい。

〘浅生鴨さんに聴きました〙わたしが感じた浅生鴨さんのこと – その1-

本当に現れた浅生鴨さん (ながい前書き)
「わたしごときが、、、」 わたしの中にはいつもそんな感覚があります。
わたしごときがお声がけして良いのだろうか。わたしごときがご一緒して良いのだろうか。自分に後ろ向きなそんな感覚。自分に自信のないわたしがそこにいて、そうやってつかみきれずに終わったチャンスがあるような気がします。

作家であり、広告や番組の企画・制作をしていたり、元NHK_PRの中の人1号としても知られる浅生鴨さん。わたしが浅生鴨さんのことを知ったのは、「ほぼ日刊イトイ新聞」です。NHK_PR時代のつぶやきは正直なところほとんど知りませんが、糸井重里さんに憧れて地方の片田舎でコピーライターとして就職したことのあるわたしにとって、ときおり「ほぼ日」でお見かけする浅生鴨さんは遠い世界の憧れの人たちの一人でした。

今年の3月に「ほぼ日」であった企画「書くことの尽きない仲間たち 車で気仙沼まで行く。」で書かれていた浅生鴨さんの「せめて、その日まで」というタイトルの文章を読んで、「あぁ、この人、なんだか好きだなぁ」と浅生鴨さんを勝手に意識するようになりました。
今年の夏くらいから浅生鴨さんのnoteを読むようになり、じわじわと私の中に浅生鴨さんの「ものの見方、考え方、好きだなぁ」がたまっていき、「こんな文章を書けるなんてッ!!」という、嫉妬のような、うらやましいような気持ちも、あわせてたまっていきました。

7月の終わり頃、浅生鴨さんがnoteで「9月に新刊のエッセイ集を出す」こと、「9月に車で熊本まで行こうと考えている」こと、そして「アマチュアのみなさんからの取材を受けてみたいなぁ」ということを投稿されているのを読み、「えーーーーーーーーーーーーっ!アマチュアでもいいの?!ねぇねぇいいの?!」と、なかば自分が取材するかのごとく「ヒャッホー!」と心のなかで叫んだものです。しかし、「わたしごときが、、、」といういつもの癖が出て、取材させてくださいっ!と申し出る勇気が出ないまま、エッセイが発売になる9月になっていました。

9月9日。アマゾンで注文していた浅生鴨さんの初のエッセイ集『どこでもない場所』がようやく届きました。本の帯の表面には「迷子でいいのだ」と書かれています。本を裏返すと「方向音痴への道【総括】」として「目的地さえなえれば方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い。」とあります。装丁も紙質もとても好きで、ワクワクしながらページをめくりました。

クリスマスのプラハで迷った挙句に酢タコに行き着く話。ホテルの朝食バイキングでお客の朝食を仕切るおばあさんの話。まるで落語を聞いてるような歯医者、ではなく口腔外科医の話。「はじめに」を含めて4つのお話を読んだところで、いったん続けて読むのをやめました。読み終えるのがもったいなくなったからです。

クスっと笑えて、ほんわかする。からだにすぅ〜っとしみ込むように文章が心地よい。言葉の使い方とか、「おお、ここでこういうですます調を入れるんだ」という文の組み立て方とか、あぁもうたまらなく好きだ! 私は浅生鴨さんの文章が好きなのだ!!と誰かに叫びたくなりました。

そしてその夜。「わたしごときが、、、」なんて言ってられない、このチャンスを逃したら二度とチャンスはこないぞ自分!と、一人で熱くなって取材の申し込みメールを書き、エイヤァ!と勢いで送信ボタンを押したのでした。ビューンという音をさせながら、わたしのパソコンから旅立った取材申し込みメール。送った1秒後には、すでに不安になっていました。「いやいやこんなどこの誰ともわからない者からの取材なんて受けてはもらえないだろう。そもそも東京までは行けないけど、旅の途中の都合の良いところで取材をさせてほしいなんてズウズウしいお願いを、しかも発信力のない一個人の取材を受けてもらえる道理がない」と、自分が申し込んだことを忘れようとしていたのですが、なんと、あっさり取材のOKをいただきました。慌てました。いや、とっても嬉しいのだけど、どうしたら良いのだろうと慌てたのでした。

9月20日夕方。約束の場所は、入り口がガラス張りのあるお店。入ってすぐのカウンターに座って浅生鴨さんを待っていました。18時に私のいるまちに到着予定とのことだったので、お店に到着するのは、それから30分くらいかかるだろうと予測していました。「迷われませんかねぇ、ここに辿り着かれるだろうか…」と「どこでもない場所」を手にしてお店のオーナーさんが心配しています。「地図をお渡ししているので大丈夫だとは思いますけど…」と答えながら、もしたどり着かなかったら、それもそれ、と自分を落ち着かせるように心の中でつぶやいていました。

18時数秒前。店の前を通りすぎる人たち。なんとなくその人たちを見ていると、あっ!!!!! インターネットで見たことのある風貌の男性がスマホ片手にお店の前を急ぎ足で通り過ぎている!! 鴨さんだっ!! カウンターの背の高めの椅子から転げ落ちるように降り、わたしは慌ててお店のドアを開け、小走りで男性に近づきました。なんと呼べばいいのだろうと瞬間的に迷いましたが、なぜか小声で「あそう、かもさん?」と声をかけました。ひらがなで呼びかけるのがやっとでした。

「あぁ、すみません、お店ここだったんですね。遅れてすみません〜」 ぬいぐるみのようなほんわかオーラに包まれた浅生鴨さんが恐縮しながらお店に入られ、「あのぉ、お手洗いおかりしていいですか?」と、一目散にトイレに入られました。

約束していたほぼ18時に到着された浅生鴨さん。ぜんぜんポンコツじゃない! お目にかかる約束はしていたものの、果たして本当に会えるのだろうかと頭をかすめていた自分を反省し、現実として動いている本物の浅生鴨さんが本当に自分の目の前に現れたことに、取材をお願いしたわたし自身がびっくり!!でした。

こうして始まった浅生鴨さんへのインタビュー。初のエッセイ集『どこでもない場所』でどうして迷いをテーマにしたのか。受注体質なのに素人からすると華やな仕事に辿り着いているのはなぜなのか。本当はしたいことがあるのではないか。こんなことイヤだなって思うことはどんなことなのか。どんな自分でありたいと思っているのか。こだわっていることはどんなことなのかなど、何の脈絡もなく、ただただ聴きたいことを質問しました。つたない質問にも1つ1つゆっくりと丁寧にお話くださいました。

インタビュー前日からドキドキし、本人を目の前にさらにドキドキで始まったインタビューでしたが、なぜか初めて会った人のような気がしなくて、ドキドキするのに癒される、とても心地よくて楽しい時間をプレゼントしてもらったようなインタビューでした。

気づく人!
どうして発信力のない、どこの馬の骨ともわからない者のインタビューを受けてくださったのだろう。取材OKをいただいてから不思議でならなかったことを聴いてみました。

「そうですね、なんだろうなぁ、noteみたいなのができて、いろんな人がいろんなことを書き始めてるじゃないですか。それはある程度訓練を受けたプロの人も書いているし、本当に書きたいという思いで書いている人もいて。いろんな人が書いている時に、たぶんインタビューって1回できるようになると、まわりの人に聴いたりだとか、いろんな聞き書きをして、どんどんお話はふくらむんだけど、最初どうやっていいかわからないし、何を聞いていいかもわかんないしっていう。でも、いきなり誰かにインタビューって急にはできないだろうから、じゃあせっかくの機会だし、練習台になればいいんじゃないかなって思って。そうしたら何かやりたいって思ってる人が、ぼく相手にインタビューの練習をして。ぼく、インタビュー、すごい下手なんです。下手っていうか、するのは上手なんですけど、インタビューされるのはすごい下手なんですよ。だから僕で練習するとあと絶対ラクなはずだから。そうやって書いてもらえれば、それはそれで本の宣伝にも多少なるだろうし。なんか、あんまり深くは考えてないんですけど。やりたい人がいたら、練習台になるよくらいの、そんな感覚なので。それに発信力ないっていっても、まわりに家族がいて、友達がいて、知り合いがいて、その人たちに『こんな人にこんなことやったんだよ』っていうのは、伝わるので。だから発信力ないわけではないので大丈夫です」

まさか練習台とは、考えてもいませんでした。ありがたい話です。インタビューされるのがすごく下手って言われてましたが、わたしが次の質問をするまでに少し沈黙が生まれても待っていてくれる。そのときの空気がほんわかしていて、焦らずに質問をすることができました。一緒にいて沈黙の時間が苦しく感じられないというのは、インタビューする側にとっては、すごく安心できることだと思います。もしかすると意識的にしているわけではなく、そういうキャラなのかもしれませんが、わたしには、とても居心地よくお話を伺うことができる方でした。

『どこでもない場所』は、20の迷エッセイ集(本の帯に記載)が載っています。どれもこれも面白いお話で、エピソードがいっぱいあるんだなぁと、うらやましく思いました。テレビなどで笑福亭鶴瓶さんが自分に起こったことを話されるのを見ていて、「この人のまわりでは、面白エピソードがいっぱいあるんだなぁ」と感心していたのですが、『どこでもない場所』を読んで、浅生鴨さんも笑福亭鶴瓶さんなんだなぁと思ったので、素直にそう聴いてみました。

「でも、たぶん、探せば誰にでもあるはずで。そこをいちいち気づいて覚えてるか、なんとなく記憶のなかで埋もれちゃったかの違いじゃないかなぁという、そんな気はするんですよ。ここに書いている話って、本当にあるあるというか、誰もが、あぁ、そういうことあるよねって話しか書いてないので。みんなが共通して体験していることを、僕は僕のフィルターをとおして『僕の場合は、こうでした』とやっているけど、なんだろう、例えば、美術の先生と一緒にオーストラリアに行く話にしても、もうダメだって次々トラブルがおきて、諦めかけたけど、うまくいったって話は誰にだってあることで。いやぁたぶんそれは、えっと、まぁ書き方の問題もあるかもしれないけど。ドラマチックになるように書いてるからで、誰でもそういうのあるだろうし。なんだろうなぁ、例えば、学生の頃の文化祭で、みんなでわぁーって気持ちが盛り上がって、終わったあとに、ちょっと寂しくなるみたいな、そんな感覚みたいなものもみんなあるだろうし、『その感覚を僕はこのエピーソードで紹介します』みたいな感じでやっているだけなので。みんながそれぞれ、いろんな場面で感じていることを、僕は僕の覚えているやり方で書いているっていう。たぶん誰でも書けることなんですよね」

えーー、そうでしょうか?

「えっと、たぶんね、気づく、だけだと思うんです。ほんとうに、それだけのこと。ふだんからそういうのに気づきやすいというか、目の前で起きていることに気づく人と気づかない人がいて、僕はわりと、そこが気になっちゃうから、気づくっていう。たぶんそれだけのことで。あと、気づいたあと、勝手にそこからいろんなことを妄想してるんで。ほんとうにそれだけのことのような気がするんですよね」

どんなことに気づいて、どんな妄想をしているのか、気になります!

「なんだろうな、例えば、今こうやって話をしながら、ぼくは、ここ(テーブル)に傘がかかっていることが、なんで傘立てに立てずに、そこにかけてるんだろう?とかって思うわけですよね」

(その日、午前中に雨が降っていて、わたしは傘を持っていたのですが、その傘をお店の傘立てに立てず、テーブルにかけていました)

「もしかして、このお店には、傘立てがないんじゃないのか。なんで傘立てがないんだろう、とか。じつは、昔ここのオーナーは、傘立てで大失敗したことがあって、みたいなことをずっと妄想で考えてるんです。と、同時に、それは、本当は傘がかかっているように見えてるけど、テーブルとくっついたインテリアとしての飾りで、傘持ったらテーブルごと動くのかもしれない、とか。というようなことも考えてるんですよね。ただ、それだけなんですよ。そういう余計なことを、ずっと考えているから覚えてるっていうか」

自分の頭の中で考えているから通り過ぎずに覚えているということでしょうか。

「うん、そう。だから、なんかあったときに、例えば、それはエッセイじゃないんですけど、小説のなにかを書くときに、登場人物が傘をここにピッてひっかけたりっていうのを1シーンとしてぼくは書くんですけど。それは、こういうのを覚えてるからで、これを覚えてなかったら、普通に傘立てに立てて入ってくと思うんですけど、傘立てに立てずにここにかけたら、それはその人の『あ、そういうことをする人なんだね』っていう特徴づけになっていく。たぶん、いろんなことを細かく見て覚えてるんだと思うんですよ」

ずっとそうやって気づいたり、妄想しているんですか?

「そうですね。ずっとそうですね」

それは、いろんなことが同時にできる人じゃないですか?

「いや妄想しかしてないんで(笑)そのぶん現実のほうがおろそかですから」

『どこでもない場所』のページをめくっていくと、ところどころに薄グレーのアミのかかったページがあって、そこに白いフキダシがあります。その中には、例えば「あなたの笹の葉はどこから?」とか「コカコーラの雄と雌をいっしょにすると…」とか、不思議なことが書かれています。これ、浅生鴨さんの妄想のいくつかなんだろうなぁ。

人の講演を聞いているとき、講演者の話を起点にわたしも妄想してしまいます。でも妄想が始まると、もう講演をしている人の話はぜんぜん頭に入ってきません。

「僕もそうですね。もう聞いちゃいない気がします。落語とかを聞きに行っても(妄想しはじめると)ぜんぜん聞いてなかったりしますから。でも、その声に圧倒されて、その声からイメージだけはずうっと浮かんでいくんです。で、また途中でスッと落語のほうに戻って。そんな感じかなぁ」

子どもの頃からそうだったのでしょうか。どんな子だったのでしょう。『どこでもない場所』に子ども頃に本を読んでいた話がありますが。

「子どもの頃から、わりとそんな感じですね。素直ないい子だったと思いますけど(笑)普通の子だと思うんだけどなぁ。本は、ぼく、おもちゃがなく、買ってもらわなかったので。レゴと本だけだったんですよ、うちにあったものが。で、そうすると、本は読むしかなくて。あとレゴってね、空想するしかないじゃないですか。レゴで恐竜つくっても、消防車つくっても、どこか想像でおぎなわないといけないので、たぶん、ずっとそういうことをやってたからだと思うんですよね」

癖なんですね。

「癖ですね」

ちなみに、さっきの、テーブルを傘にかけていた理由は、雨がやんだために傘立てに傘を立てておくと忘れて帰りそうな気がしたから。実際にそうやって忘れた経験があるのでテーブルに傘をかけていました。そのことを浅生鴨さんに明かすと。

「なるほど!傘立てだと忘れますよね。なるほどなぁ。そうですね、先回りして自分が忘れないように…。ぼく、いちいち言ってもらわないとぜんぜんダメだから、ほんとダメなんです…」

自分のことをダメだと言う浅生鴨さんのその雰囲気に、ほんとうに自分をダメだと思っているんだなぁということがしみじみ伝わってきて、なんだか「ダメでもいいよ、ポンコツでもいいよ、こんな素敵な本を書いてくださるんだからっ!!」と、思わず言いそうになりました。

浅生鴨さんが妄想する人なんだろうということは、なんとなく感じてはいましたが、「気づく」ということは、わたしにしては想像だにしなかったことだったので、とっても新鮮で、ハッとしました。ただ妄想しているのではなく、何かに気づいて妄想している。それは、ほんの些細なことなのだろうし、ほかの人が何もひっかからず、通り過ぎてしまうようなこと。その1つ1つに気づいて妄想する。まず気づくことが、浅生鴨さんなんだなぁ。

気づく人と気づかない人、どっちが良くて、どっちが良くないとかではありませんが、わたしが大切にしたいのは気づくほうのことで、それをしぜんとやっていて、そうやって浅生鴨さんが気づいていることの視点が(あぁ、視点というとなんだか形式的でいやなんですけど)、ものの見方や思い方が、わたしは好きなんだろうなぁと、自分が浅生鴨さんを好きな理由が1つわかったように思いました。

さて、このあと、『どこでもない場所』のテーマについて、言葉についてと話は続きますが、今日はここまで。つたない文章、読みにくいであろう構成や見た目の長文を読んでくださり、ありがとうございます。
(お話聴くのに夢中で写真撮るのを忘れたポンコツなわたしです)

欲望

奇をてらうわけでもなく、
たんたんとたんたんと書いていく。
たんたんとたんたんと書かれた言葉の中に
やわらかさとやさしさと
ちょっぴりのユーモラスが
ほのかに感じられて
「これ好きっ!!」じゃなくて
「なんだかこの文章好きだなぁ」って思われる。
そんな文章を書くことができるようになりたいなぁ。

ファシリテーションと赤毛のアン

5年くらい前からファシリテーションということに興味を持っています。
ここ2、3年で2つのタイプのファシリテーション講座を受講しました。

1つは、いわゆるノウハウを学ぶような講座。
話し合いの場で、合意形成や相互理解を促したり、
あるいは混沌としたやりとりを整理したり、
そこから何か方向性や考え方、やり方などを見つけていく、
その方法の概要を教えてくれたような、
あくまでも概要なんですが、そんな講座でした。

もう1つは、前に少し書いた、これ自己啓発講座じゃないの?っていうような、
ノウハウではなく、ファシリテーターのあり方を問うような講座でした。

私自身は、あがり症で、人前で話をすることが苦手なのですが、
ファシリテーションということ自体にはとても関心があり、
そのためのプログラムをつくることにさらに関心があります。

2つのタイプの違う講座を受けてみて思うのは、どちらも面白く、
学びをいただいたと思っていますが、
私のかゆいところに手が届かなかったということです。
これは、講座の内容の問題ではなく、私自身の問題ですね。

それはさておき、2つのタイプの講座を受講した結果、
思ったのは「なんだか大切なことは『赤毛のアン』な気がする」ということです。

私は『赤毛のアン』の愛読者でもなんでもないのですが、
以前だれかから教えてもらって、とっても好きな箇所があります。
それは、喉頭炎になった友達の妹をアンが看病する話の中の一場面です。
両親が遠くにお出かけしている時に妹が熱を出し、
どうして良いかわからずアンに助けを求めたダイアナ。
アンがダイアナの家に駆けつけると、お手伝いさんはおろおろするばかりで、
お湯のひとつもわかしていなかったという状況。
それを目にしたアンが言います
「あなたの気を悪くはしたくないけど、あなたに少しでも想像力があったなら、
こんなことはもうとっくの前に気がつくはずだと思うわ」
正確ではないと思いますが、このシーンが好きで、ふとしたときに思い出します。

タイプの違うファシリテーションの講座を受けて、
「で、結局大切なことってなんだろう」と考えてたときに、
「あの時のアンのいう想像力なんじゃないのかなぁ」と思ったわけです。
目の前に熱を出している人がいて、その人に今何が必要なのかを想像できる力。
当たり前のようでいて、それができていない場合も結構あるのではないかと
自分自身のことを考えてみて思います。
ファシリテーションということについても、
根底に必要なのは、そんな想像力なのではないかと思ったわけです。

そう考えながら私のまわりを見まわしてみると、
創業とか、起業とか、働き方云々とか、イノベーションとか、
そしてファシリテーターとか、
時代を彩るようなキラキラした言葉が飛び交っています。
キラキラした人達が人生を謳歌し活躍しているようにも見えます。
そんなキラキラを見て、素敵だなぁと思います。
同時に、なんとも言えない違和感を覚えます。
どうしてそんな違和感を感じるのだろうと思いめぐらせてみると
「あ〜、あの時のアンではないんだなぁ」と思いました。
大切なことが抜けているような、地に足がついていないような
そんな違和感だと思いました。
キラキラした場で語られるのは創造や創造力であることが多いのですが、
私は、そこに、赤毛のアンの想像力が抜け落ちているような、
大切にされていないような印象を感じていたわけです。

タイプの違う2つのファシリテーション講座。
一見すると、ノウハウ的な内容の講座より、あり方を問う内容の講座のほうが
見ている視野の広い、想像力のある講座のような気もします。
私が受講した講座の場合、振り返ってみると逆でした。
想像力って、もしかすると人を謙虚にする、そんな力もあるのかもしれない。
ファシリテーションっの講座を受けて、赤毛のアンを思い出し、
想像力って大切だなぁと改めて思いました。

あれ?書いてたら棚卸し。

たまに顔を出すコワーキングスペースは、
いろいろな講座を行っているので、ごくたまに参加します。

そこで行われているのは、SNSの講座やブログ講座、ファシリテーションや
デザイン講座ほか。コワーキングスペースなだけあって、
創業を意識した内容になっているような印象があります。

先日、ひさしぶりにそこでの講座に参加しました。
私がこれまで参加したその場での講座は、
いずれも一方的に講義を受けるのではなく
必ず参加者同士の自己紹介時間や、講師からの問いに対する自分の考えを
ペアで意見交換するなど、ワークショップ的な要素が盛り込まれていました。

で、意見交換をしてみると、特に女性の場合、「幸せな女性を増やしたい」とか「人々を笑顔にしたい」とか、立派な目標をおっしゃる方が多く、
やる気がみなぎってる、自信いっぱいに見える人が多い気がします。
私はといえば、そんな立派な目標はなく、自分のふりかえりとか、
ちょっと学んでみたいなぁくらいな軽い気持ちで参加しているため、
そんな人達を目の当たりにすると、
すごいなぁと、ただただ圧倒されるばかりです。

考えてみれば、人見知りであがり症で、自分に自信がないために
いかせなかったチャンスもたくさんあったような気がします。
ある意味ギラギラした、自分をアピールできる人が眩しくてしかたありません。

反面、どうもそういうギラギラが苦手でもあります。憧れるけど苦手なんです。
ギラギラしないで自分をアピールできるようになりたいなぁ。
では、そのためにどうするか。
まずは、自分の棚卸しから始める必要があるんだろうなぁと思っています。
では、どんなふうに棚卸しをすればよいのか。。。

・・・と、ここまで書いて思い出しました。
先日受講したデザインの講座で、問われました。
「あなたの事業のコンセプトは何ですか?」
正直なところ、これを聞かれるのが一番困ります。
人様の、私以外の人の事業や云々のコンセプトを組み立てたり、発見したり、
整えたり、言語化する、そのサポートを行っている私の事業のコンセプトは、
コンセプトがないことです。色に例えると無色。
そんなふうに考えているところがあります。

あれ、もしかして、これってギラギラできていないことと
何か関係ありそうな気がするぞ。
もしや無色を意識しているからギラギラしないのか?!
そうなのか、自分?!
憧れているなんて書きながら、ギラギラになりたいなんて書きながら
心の底では、そうは思っていなかったということなのか?!
なぁんだ、そういうことかぁ。。。
と、このブログを書きながら腑に落ちました。
とんだ独り相撲な内容になっていますが、
今日1つ、自分の棚卸しができたような気になっています。
ブログを書くって、そんな効果もあるんですね。 

人の本質を見ようとしたら自分を見つめ直すことにつながった。

ある方からご縁をいただき、現在、出版本の編集に携わらせていただいています。
実際に出版されるのは、まだまだ先の話です。
これまで、広報物の編集作業は経験ありましたが、
販売される本の編集というのは初めてのことで、
なんとも言いがたい高揚感があります。

本の内容はここでは差し控えるとして、
この作業を行っていくなかで、
とても不思議な感覚を覚えたので備忘録として記します。

編集ということは、例えば著者である方の考えにふれなければできません。
その方の考えや書かれているものを自分の中で咀嚼しながら、
どう組み立てるのが良いのかを考える。
もちろん私一人で考えるわけではなく、
著者の方とやりとりしながら、その方のお考えを前提として考えます。

もしかすると鳥の視点で俯瞰して、客観的にその方の考えや思いを受けとめ、
編集していくことが良いのかもしれませんが、
不器用な私は、どこかでその方に憑依するようなそんな感覚があります。
そのうえで客観視するという、そんな感じで作業を進めてきました。

著者の方のお考え、思いを深堀りする、そんな作業を繰り返していたのですが、
これがなぜか自分を深堀するというか、自分を見つめ直すことにつながったような気がしています。
自分ではない人格について考え、見つめていたのに
それが結果、自分を見つめ直すことにつながるとは、
作業を始めた当初は思ってもみませんでした。

結果、自分のダメなところ、無意識のうちにかぶっていた鎧や
ついてしまった垢のようなものがとれるような、そんな感覚を覚えました。
こういうのをメンタルブロックが外れたというのかしら。。。

3年くらい前に、ファシリテーションプロフェッショナル講座だったか、
そういうのを受けた時に、スキルではなく、あり方を問われ、
もはやこれはファシリテーション講座というより自己啓発講座ではないかとさえ
思うような内容で、自分の問題点をつきつけられました。
その時は、なんとなく感じたような、わかったような気がしていたのですが、
じつはぜんぜんわかっていなかったことを、今更ならが実感し、今になって、
あの時できなかったことができるようなになったような感覚を覚えました。

自分自身を問われ、自分を省みるように力を入れていたことが
逆に自分を頑なにしていたのかどうかわかりませんが、
自分以外の人の本音、本質に向き合おうとした結果、
それが自分と向き合うことになったとは、なんとも面白いなぁと思っています。

この編集という作業、苦しいですけど、とても楽しい。
もっともっとそういう仕事を増やしていきたいなぁと思うこの頃です。

井の中の蛙。

お酒は飲んでも飲まれるな。
今のところお酒に飲まれたことはないのだけど、
SNSに飲まれてはいけないなぁとつくづく思う。
なぜなら、SNSって開かれているようで閉ざされた場のように感じるから。

SNSの詳しい技術やアルゴリズムについて、私はほとんどわからないけど、
そこで繰り広げられるのは、自分が選んだもしくは自分が選んだ人に関連したものごとで、ある一部の限られた世界だと思う。
そんなこと言わずもがな、なのだろうけど、
それを自分の良いように勘違いしてしまうことって、
案外あるのではないかと思うのだ。

SNSの世界ではないが、
例えば、ある界隈で話題になったり、もてはやされたりすると
自分がまるで「できる人」になったように勘違いしたり、
自分がまちを、社会を動かしているような感覚に
陥ることもあるのではないと思う。
そういう人と実際に仕事をしてみると
「この人、全然できないじゃないっ!!」って残念に思うことがある。
もてはやされていることと仕事がキチンとできることは違うのだ、と、
つくづく感じている。
そんな時は、自分のことを棚に上げて「あぁ、井の中の蛙にならないでね」と、
祈る気持ちにすらなる。

今更感のある言い方をすれば、今は、インターネットがつながり、
日本だけでなく世界とつながることができるし、
個人がどんどん自分で自分を発信できる時代だ。
何かで突然話題になり、注目が一気に拡がることもある。
もてはやされて、人が集まってきて、
「自分が世界」と勘違いしてしまうことだってある。
だけどね、きちんと仕事ができる力がともなわないと、
一過性の流行として消費されてしまう結果になりかねない。
もてはやされている時こそ、そんな感覚を持っておくことが大切だと思う。

きちんと仕事ができる力とは、特別なことでもなんでもなく、
例えば、計画的に仕事を進めることができるとか、
チームで行う場合は「報・連・相」ができるとか、
そもそもその仕事の意図をキチンと理解できているとか、そんなことだ。
そういうことをおろそかにすることが重なると、
自分の信用を落とすことにつながったり、
相手にストレスを与えて
「あぁ、この人とは仕事したくないなぁ」という不満を生んでしまう。

トンチンカンなことを書いている気もするが、
今自分が見えている世界、自分が身をおいている場が全てではない、
という感覚を持っていたい。
自分を客観的に見るスタンスを忘れないようにしたい。

1トーン下げる。

私には、「宇宙で1番好きっ!!」という声がある。
その声を聴くとキュンとしてホッとする。
おそらくこの声以上に好きになる声はないだろうと思っている声。
例えばワインを語るソムリエのように、
この声がどんな声なのか言葉で表せないものかと思っているのだけど、
ほどよい言葉が見つかっていない。

そんなことはどうでも良いのだけど、
「やっぱり声って大切だなぁ」と感じる場面がちょくちょくある。

人に何かを伝える時。大切なことは3つあると思っている。
「誰が話すのか」「何を話すのか」「どう話すのか」の3つだ。
このうち「どう話すのか」でとても重要になるのが声だと思う。

でも、声って、もって生まれたものだから、どうしようもないよねぇ。。。
と、昨年まで諦めていた。
だけど、ある時、自分の声に関して気づいてしまった。

同じような人は多いと思うけど、
私には、どこかで自分を引いて見てる感覚があって、
夢中になって話したあと、
「あ~なんだか我を忘れて語ってしまった気がする!あぁ恥ずかしい。。。」
と思うことがある。そういうことが増えている気がする。
そのたびに「興奮しないようにしなきゃっ!」と思うのだが、
ついつい忘れて今日もまた興奮していまうしまつ。。。
だけど気づいてしまったのだ、自分の声に関して。
そうやって我を忘れて語ってしまっている時の私の声は
キンキンしているってことにっ‼衝撃だった!

余談であるが、私の母は、けっこ毒舌なところがあって、
テレビなどで女子アナが話しているのを聞いて
「このキンキンした声、この人きっとヒステリーよ」と時折言っているのだが、
ま・さ・にそのキンキン声を私は、出していたのだ!!

ついつい興奮して語ってしまう、そうならないために
キンキンした声を出さないよう、1トーン低めの声で話す癖をつけたい。
そうすると、少しは賢そうな印象になるかな?
あ、今年の目標がまた1つ増えてしまった。