せつなくなったこと。

今日、日付変わったので昨日、両親のワクチン接種予約をwebでおこなった。
メール登録など、事前に行えることは行い、予約開始時間の午前9時にすぐ
予約できるようスタンバイ。
テレビで時刻が9時になったとたんに予約を開始した。だが、その時点で、
すでに接種予約日時カレンダーを見ると×××、つまり空きなしの嵐。
結局予約できなかった。これは、正直者はバカをみる状態なのだろうか。
だったら悲しい、と思った。

念のため電話での予約にもトライしてみたが、「つながりにくい状態になって
います」というアナウンス。「そうだよね」と思いながら、電話を切った。
夕方、なんとなくもう1回と思い予約番号に電話してみたが、やはり「つなが
りにくい状態です」のアナウンス。
一人暮らしや老夫婦だけのお年寄りが、すでに空きなしのことを知らずに一生
懸命電話しているのかなぁと思うと、せつなくいたたまれなくなった。webを
使えないお年寄り世帯も多いと思うし、(web使えても予約できなかったけど)、
電話で早いもの勝ちみたいな方法で予約って、その方法しかなかったのかもし
れないけれど、なんだか優しくないなぁ。

夜、市役所のホームページを見ると、次回の予約について掲載されていた。
でも、これを見られないお年寄りは、このことをどうやって知るのだろう。
来週のことだから月末に配布される市政だよりだと間に合わないし、回覧板と
かで知らせるのかな、それも期待できない気もするし、結局また明日以降、
電話するしかないのかな。電話する人はまだ良いけれど、そうでない人はどう
やって知るんだろう。
一人で不安になっている人とかいるんじゃないのかなとか考えると、なんだか
やるせない気持ちになった。
コールセンターとかなんとかに何億、何十億という記事を目にした。それも必
要なのかもしれないけれど、そこからこぼれ落ちる人たちにも安心が届くとい
いなと思う。多様性の時代といわれているようだけど、なんだかその言葉にむ
なしさとせつなさを感じた今日、いや昨日だった。今日一生懸命電話してつな
がらなかったお年寄りが安心して予約できますように。

新年あけましておめでとうございます。

2021年があけまして2日目。
今年の目標の一つは、ブログもしくはnoteをなるべく多く投稿することです。

昨年は、はじめてチャレンジした事務局長という仕事にどっぷりの一年でした。
深夜2時3時までパソコンに向かっている日も多く、
コロナ禍もあり、限られた人としたお目にかかれませんでしたし、
時間の余裕がない日々を過ごしていました。
メンタル崩壊なこともありましたが、
この経験は、きっと次に活かせると思っています。
プロジェクトマネージメントという意味でも良い経験になりました。
次にこのような機会があるならば、
今回よりきっとうまくできるはずです(笑)

今年は、どんな年になるのか、
正直なところまったく見えておりませんが、
自分のまわりにいる人、ご縁のあるみなさん、
そして自分自身の楽しいうれしいを大切にしながら
肩の力をぬいて、気負わず正直に歩いていきます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


書籍編集という仕事

今年(2020年)の3月、お手伝いしていた本が出版された。

一般書ではなく、お値段も少々お高いのだが、
著者の方のお名前や今のご時世を反映してか
ぼちぼちと売れているよう。

地元月刊誌でインタビュー記事の連載などの経験はあったが
商業出版の本まるごと一冊の仕事は初めてだったので
私にとっては記念すべき本だ。
地方にいながら出版のお手伝いができたのは
著者の方からのお声がけがあったから。
心から感謝している。

とってもたいへんだったけど、
「わたしは、こういう仕事が好きだ」と思った。

一冊の本を編集したり、著者との対話を積み重ねたり、
原稿を整えたり、書いたりしながらつくりあげていく、
そんな作業が好きなのだろう。
たいへんだったけど、とっても楽しかった。
書籍編集ライティングの仕事がしたい!
そう目覚めた一冊であった。(目覚めるのが遅いw)

地方在住でも書籍編集の仕事成立するのかしら。。。

まあるい味のほっこり。

あたたかい麦茶が好きだ。夏に飲む冷たい麦茶も好きなのだけど、それにもまして夏以外に飲むあたたかい麦茶が好きなのだ。

やかんでお湯を沸かし、沸騰したら三角テトラ型ティーパックの丸粒麦茶を1つほおりこむ。やかんの蓋を開けたまま、フツフツと煮る。しばらくしたら火をとめてそのまま置く。またしばらくしたらやかんの中の丸粒麦茶を取り出して、できた麦茶をちょっぴり沸かし、卓上保温ポットに入れる。

この卓上保温ポット、どこにでも売っているごくごく普通のステンレスポットなのだけど、これって最強!というくらいあっつあつを保ってくれて、「いつも美味しいあたたかい麦茶を提供してくれてありがとうポットさん!」と言いそうになるくらい良い仕事をしてくれる。ポットが麦茶を沸かしてくれるわけではないのだけれど、せっかく沸かした麦茶が冷めずにいつでも飲めるのは、やっぱりこの卓上保温ポットさんのおかげなのだ。ずんぐりむっくりなその姿はテーブルの上の空気をほっこりさせる小さなしあわせアイテムだ。

そんなほっこり卓上保温ポットから、カップにコッコッコッと麦茶を注ぐ。注いだばっかりのときは、熱すぎて飲めないのだけど、それもご愛嬌だ。

ほんのり甘くて美味しいあたたかい麦茶。緑茶も好きだけど、緑茶よりも、まあるい味がするあたたかい麦茶がわたしは好きだ。あたたかい麦茶はわたしにとって気持ちを落ち着かせてくれる癒しの飲み物の1つなのだ。

あたたかい麦茶と並んでもう1つ、癒しの飲み物がある。それはカルピス。カルピスも冷たいものより、ほっとカルピスが好き。疲れた時や気分転換したいとき、心が頑なになっているときやギスギスしてしまっているときに、ほっとカルピスを飲むと不思議と気持ちがほぐれてきて、リラックスしてやさしい気持ちになれる、気がする。わたしはこれをほっとカルピスマジックと呼んでいる。

わたしにとっては、同じあたたかい飲み物でも、紅茶や珈琲とは違う、麦茶とカルピスのほっこり感、癒し感は格別だ。だからといって麦茶とカルピスを混ぜるとさらに最強になるかというと、当然ながらそんなことはない。麦茶とカルピスの両方を毎日飲んでいるわけでもない。毎日飲むのはあたたかい麦茶で、たまのご褒美として飲むのがほっとカルピス。だからといってほっとカルピスが上で、あたたかい麦茶が下というわけではない。わたしからしたら、あたたかい麦茶とほっとカルピスに上も下もないのだ。

あれ、カルピスのあたたかいのはほっとカルピスと呼ぶのに、どうして麦茶はほっと麦茶と呼んでいないのだろう。。。まぁ、そんなことはどうでも良い。とにかくわたしは、麦茶もカルピスも冷たいのより、あたたかいのが好きなのだ。あたたかい麦茶とほっとカルピスを飲んだことがないというそこのあなた。心がささくれ立ちそうな昨今、あたたかい麦茶やほっとカルピスを飲んでみてください、気持ちがやんわりほぐれるかもしれませんよ。

遅れてきたポリポリ。

今年に入ってから柿の種にハマっている。
たまたまいただいた、ごくごく普通の柿の種。
考えてみればそれまでは、からい気がして、ほとんど食べたことがなかった。
手持ちぶさたで、いただいたそれを食べてみると、
あらあら美味しいではないですかっ!いっきに遅くきた柿の種マイブームである。

この頃は、マツコさんが「常識を疑え」って宣伝している柿の種。
この柿の種とピーナッツの割合はひとそれぞれなのだろう。わたしは、5、6粒の
柿の種と1つのピーナッツを同時に口に入れて食べるのが好きだ!

やめられないとまらないかっぱえびせんと同じく、柿の種もとまらない。
わたしは、柿の種とピーナッツを合わせて柿の種と呼ぶのだと思っていたが、
柿の種とは三日月みたいなオレンジ色のあれのことで、ピーナッツはピーナッツなのだということを最近知った。冷静に考えてみたら当たり前の話だ。しかし、ピーナッツが入っていない柿の種が売られているのを発見したときは衝撃を受けた。

おいしいおいしい柿の種。ポリポリ食べてたらにゃんこ先生が耳だけこっちへ向ける柿の種。ひとりでこっそり食べるのが好き。本を読んだり、妄想めぐらしたり、夜更かし観たり、好きなことをしながらのポリポリが小さなしあわせだったりする。

ポリポリポリポリ柿の種。子どもの頃はからくて食べられなかった柿の種。いまは美味しくいただいている。それはわたしが大人になったということなのか。
ポリポリポリポリ柿の種。大人の証、柿の種。今日もポリポリ柿の種。夜中にポリポリ柿の種。ああ柿の種。柿の種。

仏眼を持つオンナ。

昨年の11月、生まれて初めて手相占いというものをしてもらった。参加していたおしゃれなイベントになぜか怪しげな手相占い師さんが出店されていたのだ。雑誌やテレビやインターネットの占い(しいたけさんとか)は見るのだが、生で占い師さんに占ってもらった経験のない私は、興味半分怖さ半分で、しばらく占ってもらうことを決めかねていた。がしかし、意を決して占ってもらおうとひときわ異彩をはなっているそのコーナーに行ってみると、なんと9人待ち!! しかも、予約がわりのトランプカードを配っているらしく、それも残り1枚という人気ぶり。なんとか最後の1枚のトランプをゲットした。

それから何時間たったのだろうか。占い順番ラストの私の番がやっときた。怪しげな占い師さんの前に座ると、あらあらなんともお優しい方で、いっきに気持ちがなごんだ。
で、私の手相である。どうやら仏眼というものと太陽線というものがあるらしい。これは良い相らしく、手相から見てわたしは成功を約束されているらしい(笑)
何を持って成功なのかはわからないのだけど、とにかく成功を約束されているのだから自分の未来は明るいと信じ込もうではないか!

そして注意事項として教えてくれたのが、自分に自信がないことらしい。当たっている!当たっているよ占い師さん!!  私は自分に自信がないのだ、自信なんて持てないのである。「人のことは気にしないで、おおらかな気持ちで、自分を信じて自分の道を歩めばいい」とアドバイスしてくださった。そして、「自分の手相を見て、私は成功するんだと自信を持ってください!自信がないときは自分の手相を見てください! 」と力強い言葉をかけてくださった。

で、仏眼。仏の眼と書いてブツガン。仏像好きの私には、ありがたく、うれしく、ヒァッホーとなる文字。なんとも縁起の良さそうな、不思議な力でも備えているような、水戸黄門さまの印籠のような響きがあるではないか。仏眼をさずけてくださって、ご先祖さま、おじいちゃん、おばあちゃんに感謝感謝である。

というわけで、私は成功するらしい。
そしてこれからは、自分の手相を見ることが増えるかもしれない。私がもし自分の手のひらをジッと見ている場面に遭遇したら、「コイツ自信を持とうと念じてるんだな」と察していただき、そっと見守っていただければ幸いです。

思考した1月。たのしくなあれ2月。

のろまな亀の歩みのように終わったような気がする2019年1月。
亀のような歩みのなかで考えることも多かったように思う。

一昨年からお世話になっている先生と会い、お話を聴き、思いを巡らすことが多くなった1月だった。まだまだ解は出せないのだけど、永遠に解は出せないのかもしれないのだけど、一歩でも1ミリでも想いを、暗黙知を、言葉にしたいという気持ちが今まで以上にむくむくとし、そのことにわくわくもした2019年の1月だった。

ずっと気になっていた編集という仕事。その道のど真ん中にいる方のお話を聴き、言葉をかわすこともできた月でもあった。心のどこかで私の仕事は、私がしたいことは翻訳ではないかと思っているところがあり、翻訳と編集ということがもしかすると私の仕事を表す重要な言葉なのではないかとぼんやり思っていた。以前は編集といえば松岡正剛さんと思っていたのだけど、今は注目されている編集者さんが何人もいて、そんな方々が出版されたり講演されたりで引っぱりだこのように見受けられる。これもまた時代を象徴する、今の時代が求めていることなのだろうと思う。

先生といい、編集者の方といい、その道で真摯にきちんとお仕事をされている方は奥が深いとつくづく感じた1月でもあった。全国区の方だからすごいということではないのだろうけど、その道で知られる人は、それだけの理由があるわけで、地方で声高に語るだけの人とは違うということを話を聞くと思い知らされる。安直にひとことでいえば本物は違う、のだ。関東のすごいところは、そういう人がうじょうじょいるということなのだろうと思う。面白い人、本物がたくさんいるからその化学反応で面白いことが生まれ、本物が育つ。本物に鍛えられた人たちがまた本物になっていく。その連鎖がうまれる構造があること自体がすごいことなのだろうと思うのだ。地方創生とかなんとか言われながらスタートアップイベントやそのほかいろいろなイベントや事業が行われているのだけど、本物の連鎖みたいなものがまだ起きていなくて、ニセモノっぽいヒトモノコトばかりがプツプツとうまれては勘違いに包まれた小さな世界の中で井の中の蛙になっている。そんな印象がある。ニセモノもそのうち本物へと育っていけば良いのだから、へんな縄張り意識はとっぱらって本物の連鎖に育つように心をオープンに発想をひろくすれば良いのになぁ。枠組みにとらわれすぎてはいないだろうか。そんなことが頭をかすめた1月でもあった。

否定からはいって可能性の面白さの枠を決めつけるのはもったいない。まずは肯定からはいってみようよ!と自分の中の壁をわたしなりに外すことを意識してみたら、あらあらなんだか不必要なこだわりがちょっとはなくなったような気がする2019年の1月が終わった。

さて2月。私の2月たのしくなぁれ。

そんなこともあるよね。

2019年が明けすでに1月も20日が過ぎた。

2018年のうちにしたかったけど、できなかったことが3つある。
いやいや3つどころではないのだけど、
直近でできなかったことだけあげると3つというだけだ。
そして、始めたい!と思ったけど、始められなかったことが1つ。
これも直近での数だ。

まぁ、しかたないよね、そんなこともあるよね、
と受け流すくらいの気持ちで2019年を迎えた。

以前の私だったら、できなかったことを悔やんだり、
心のどこかで勝手にうしろめたさを感じていたのかもしれないけど、
そんなこともあるよね、という気持ちになることができるようになったのは
浅生鴨さんのおかげだと勝手に思っている。
正確にいえば浅生鴨さんと浅生鴨さんのエッセイ『どこでもない場所』
のおかげである。
この感覚というか、そういう気持ちを覚えたのは2018年の一番の収穫だ。

気楽に、楽しく、ふかく、ゆるやかに、のびやかに
2019年を面白い1年にしたいと思う。
できなかったとしても、そんなこともあるよね、でいきたい。

〘浅生鴨さんに聴きました〙わたしが感じた浅生鴨さんのこと – その1-

本当に現れた浅生鴨さん (ながい前書き)
「わたしごときが、、、」 わたしの中にはいつもそんな感覚があります。
わたしごときがお声がけして良いのだろうか。わたしごときがご一緒して良いのだろうか。自分に後ろ向きなそんな感覚。自分に自信のないわたしがそこにいて、そうやってつかみきれずに終わったチャンスがあるような気がします。

作家であり、広告や番組の企画・制作をしていたり、元NHK_PRの中の人1号としても知られる浅生鴨さん。わたしが浅生鴨さんのことを知ったのは、「ほぼ日刊イトイ新聞」です。NHK_PR時代のつぶやきは正直なところほとんど知りませんが、糸井重里さんに憧れて地方の片田舎でコピーライターとして就職したことのあるわたしにとって、ときおり「ほぼ日」でお見かけする浅生鴨さんは遠い世界の憧れの人たちの一人でした。

今年の3月に「ほぼ日」であった企画「書くことの尽きない仲間たち 車で気仙沼まで行く。」で書かれていた浅生鴨さんの「せめて、その日まで」というタイトルの文章を読んで、「あぁ、この人、なんだか好きだなぁ」と浅生鴨さんを勝手に意識するようになりました。
今年の夏くらいから浅生鴨さんのnoteを読むようになり、じわじわと私の中に浅生鴨さんの「ものの見方、考え方、好きだなぁ」がたまっていき、「こんな文章を書けるなんてッ!!」という、嫉妬のような、うらやましいような気持ちも、あわせてたまっていきました。

7月の終わり頃、浅生鴨さんがnoteで「9月に新刊のエッセイ集を出す」こと、「9月に車で熊本まで行こうと考えている」こと、そして「アマチュアのみなさんからの取材を受けてみたいなぁ」ということを投稿されているのを読み、「えーーーーーーーーーーーーっ!アマチュアでもいいの?!ねぇねぇいいの?!」と、なかば自分が取材するかのごとく「ヒャッホー!」と心のなかで叫んだものです。しかし、「わたしごときが、、、」といういつもの癖が出て、取材させてくださいっ!と申し出る勇気が出ないまま、エッセイが発売になる9月になっていました。

9月9日。アマゾンで注文していた浅生鴨さんの初のエッセイ集『どこでもない場所』がようやく届きました。本の帯の表面には「迷子でいいのだ」と書かれています。本を裏返すと「方向音痴への道【総括】」として「目的地さえなえれば方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い。」とあります。装丁も紙質もとても好きで、ワクワクしながらページをめくりました。

クリスマスのプラハで迷った挙句に酢タコに行き着く話。ホテルの朝食バイキングでお客の朝食を仕切るおばあさんの話。まるで落語を聞いてるような歯医者、ではなく口腔外科医の話。「はじめに」を含めて4つのお話を読んだところで、いったん続けて読むのをやめました。読み終えるのがもったいなくなったからです。

クスっと笑えて、ほんわかする。からだにすぅ〜っとしみ込むように文章が心地よい。言葉の使い方とか、「おお、ここでこういうですます調を入れるんだ」という文の組み立て方とか、あぁもうたまらなく好きだ! 私は浅生鴨さんの文章が好きなのだ!!と誰かに叫びたくなりました。

そしてその夜。「わたしごときが、、、」なんて言ってられない、このチャンスを逃したら二度とチャンスはこないぞ自分!と、一人で熱くなって取材の申し込みメールを書き、エイヤァ!と勢いで送信ボタンを押したのでした。ビューンという音をさせながら、わたしのパソコンから旅立った取材申し込みメール。送った1秒後には、すでに不安になっていました。「いやいやこんなどこの誰ともわからない者からの取材なんて受けてはもらえないだろう。そもそも東京までは行けないけど、旅の途中の都合の良いところで取材をさせてほしいなんてズウズウしいお願いを、しかも発信力のない一個人の取材を受けてもらえる道理がない」と、自分が申し込んだことを忘れようとしていたのですが、なんと、あっさり取材のOKをいただきました。慌てました。いや、とっても嬉しいのだけど、どうしたら良いのだろうと慌てたのでした。

9月20日夕方。約束の場所は、入り口がガラス張りのあるお店。入ってすぐのカウンターに座って浅生鴨さんを待っていました。18時に私のいるまちに到着予定とのことだったので、お店に到着するのは、それから30分くらいかかるだろうと予測していました。「迷われませんかねぇ、ここに辿り着かれるだろうか…」と「どこでもない場所」を手にしてお店のオーナーさんが心配しています。「地図をお渡ししているので大丈夫だとは思いますけど…」と答えながら、もしたどり着かなかったら、それもそれ、と自分を落ち着かせるように心の中でつぶやいていました。

18時数秒前。店の前を通りすぎる人たち。なんとなくその人たちを見ていると、あっ!!!!! インターネットで見たことのある風貌の男性がスマホ片手にお店の前を急ぎ足で通り過ぎている!! 鴨さんだっ!! カウンターの背の高めの椅子から転げ落ちるように降り、わたしは慌ててお店のドアを開け、小走りで男性に近づきました。なんと呼べばいいのだろうと瞬間的に迷いましたが、なぜか小声で「あそう、かもさん?」と声をかけました。ひらがなで呼びかけるのがやっとでした。

「あぁ、すみません、お店ここだったんですね。遅れてすみません〜」 ぬいぐるみのようなほんわかオーラに包まれた浅生鴨さんが恐縮しながらお店に入られ、「あのぉ、お手洗いおかりしていいですか?」と、一目散にトイレに入られました。

約束していたほぼ18時に到着された浅生鴨さん。ぜんぜんポンコツじゃない! お目にかかる約束はしていたものの、果たして本当に会えるのだろうかと頭をかすめていた自分を反省し、現実として動いている本物の浅生鴨さんが本当に自分の目の前に現れたことに、取材をお願いしたわたし自身がびっくり!!でした。

こうして始まった浅生鴨さんへのインタビュー。初のエッセイ集『どこでもない場所』でどうして迷いをテーマにしたのか。受注体質なのに素人からすると華やな仕事に辿り着いているのはなぜなのか。本当はしたいことがあるのではないか。こんなことイヤだなって思うことはどんなことなのか。どんな自分でありたいと思っているのか。こだわっていることはどんなことなのかなど、何の脈絡もなく、ただただ聴きたいことを質問しました。つたない質問にも1つ1つゆっくりと丁寧にお話くださいました。

インタビュー前日からドキドキし、本人を目の前にさらにドキドキで始まったインタビューでしたが、なぜか初めて会った人のような気がしなくて、ドキドキするのに癒される、とても心地よくて楽しい時間をプレゼントしてもらったようなインタビューでした。

気づく人!
どうして発信力のない、どこの馬の骨ともわからない者のインタビューを受けてくださったのだろう。取材OKをいただいてから不思議でならなかったことを聴いてみました。

「そうですね、なんだろうなぁ、noteみたいなのができて、いろんな人がいろんなことを書き始めてるじゃないですか。それはある程度訓練を受けたプロの人も書いているし、本当に書きたいという思いで書いている人もいて。いろんな人が書いている時に、たぶんインタビューって1回できるようになると、まわりの人に聴いたりだとか、いろんな聞き書きをして、どんどんお話はふくらむんだけど、最初どうやっていいかわからないし、何を聞いていいかもわかんないしっていう。でも、いきなり誰かにインタビューって急にはできないだろうから、じゃあせっかくの機会だし、練習台になればいいんじゃないかなって思って。そうしたら何かやりたいって思ってる人が、ぼく相手にインタビューの練習をして。ぼく、インタビュー、すごい下手なんです。下手っていうか、するのは上手なんですけど、インタビューされるのはすごい下手なんですよ。だから僕で練習するとあと絶対ラクなはずだから。そうやって書いてもらえれば、それはそれで本の宣伝にも多少なるだろうし。なんか、あんまり深くは考えてないんですけど。やりたい人がいたら、練習台になるよくらいの、そんな感覚なので。それに発信力ないっていっても、まわりに家族がいて、友達がいて、知り合いがいて、その人たちに『こんな人にこんなことやったんだよ』っていうのは、伝わるので。だから発信力ないわけではないので大丈夫です」

まさか練習台とは、考えてもいませんでした。ありがたい話です。インタビューされるのがすごく下手って言われてましたが、わたしが次の質問をするまでに少し沈黙が生まれても待っていてくれる。そのときの空気がほんわかしていて、焦らずに質問をすることができました。一緒にいて沈黙の時間が苦しく感じられないというのは、インタビューする側にとっては、すごく安心できることだと思います。もしかすると意識的にしているわけではなく、そういうキャラなのかもしれませんが、わたしには、とても居心地よくお話を伺うことができる方でした。

『どこでもない場所』は、20の迷エッセイ集(本の帯に記載)が載っています。どれもこれも面白いお話で、エピソードがいっぱいあるんだなぁと、うらやましく思いました。テレビなどで笑福亭鶴瓶さんが自分に起こったことを話されるのを見ていて、「この人のまわりでは、面白エピソードがいっぱいあるんだなぁ」と感心していたのですが、『どこでもない場所』を読んで、浅生鴨さんも笑福亭鶴瓶さんなんだなぁと思ったので、素直にそう聴いてみました。

「でも、たぶん、探せば誰にでもあるはずで。そこをいちいち気づいて覚えてるか、なんとなく記憶のなかで埋もれちゃったかの違いじゃないかなぁという、そんな気はするんですよ。ここに書いている話って、本当にあるあるというか、誰もが、あぁ、そういうことあるよねって話しか書いてないので。みんなが共通して体験していることを、僕は僕のフィルターをとおして『僕の場合は、こうでした』とやっているけど、なんだろう、例えば、美術の先生と一緒にオーストラリアに行く話にしても、もうダメだって次々トラブルがおきて、諦めかけたけど、うまくいったって話は誰にだってあることで。いやぁたぶんそれは、えっと、まぁ書き方の問題もあるかもしれないけど。ドラマチックになるように書いてるからで、誰でもそういうのあるだろうし。なんだろうなぁ、例えば、学生の頃の文化祭で、みんなでわぁーって気持ちが盛り上がって、終わったあとに、ちょっと寂しくなるみたいな、そんな感覚みたいなものもみんなあるだろうし、『その感覚を僕はこのエピーソードで紹介します』みたいな感じでやっているだけなので。みんながそれぞれ、いろんな場面で感じていることを、僕は僕の覚えているやり方で書いているっていう。たぶん誰でも書けることなんですよね」

えーー、そうでしょうか?

「えっと、たぶんね、気づく、だけだと思うんです。ほんとうに、それだけのこと。ふだんからそういうのに気づきやすいというか、目の前で起きていることに気づく人と気づかない人がいて、僕はわりと、そこが気になっちゃうから、気づくっていう。たぶんそれだけのことで。あと、気づいたあと、勝手にそこからいろんなことを妄想してるんで。ほんとうにそれだけのことのような気がするんですよね」

どんなことに気づいて、どんな妄想をしているのか、気になります!

「なんだろうな、例えば、今こうやって話をしながら、ぼくは、ここ(テーブル)に傘がかかっていることが、なんで傘立てに立てずに、そこにかけてるんだろう?とかって思うわけですよね」

(その日、午前中に雨が降っていて、わたしは傘を持っていたのですが、その傘をお店の傘立てに立てず、テーブルにかけていました)

「もしかして、このお店には、傘立てがないんじゃないのか。なんで傘立てがないんだろう、とか。じつは、昔ここのオーナーは、傘立てで大失敗したことがあって、みたいなことをずっと妄想で考えてるんです。と、同時に、それは、本当は傘がかかっているように見えてるけど、テーブルとくっついたインテリアとしての飾りで、傘持ったらテーブルごと動くのかもしれない、とか。というようなことも考えてるんですよね。ただ、それだけなんですよ。そういう余計なことを、ずっと考えているから覚えてるっていうか」

自分の頭の中で考えているから通り過ぎずに覚えているということでしょうか。

「うん、そう。だから、なんかあったときに、例えば、それはエッセイじゃないんですけど、小説のなにかを書くときに、登場人物が傘をここにピッてひっかけたりっていうのを1シーンとしてぼくは書くんですけど。それは、こういうのを覚えてるからで、これを覚えてなかったら、普通に傘立てに立てて入ってくと思うんですけど、傘立てに立てずにここにかけたら、それはその人の『あ、そういうことをする人なんだね』っていう特徴づけになっていく。たぶん、いろんなことを細かく見て覚えてるんだと思うんですよ」

ずっとそうやって気づいたり、妄想しているんですか?

「そうですね。ずっとそうですね」

それは、いろんなことが同時にできる人じゃないですか?

「いや妄想しかしてないんで(笑)そのぶん現実のほうがおろそかですから」

『どこでもない場所』のページをめくっていくと、ところどころに薄グレーのアミのかかったページがあって、そこに白いフキダシがあります。その中には、例えば「あなたの笹の葉はどこから?」とか「コカコーラの雄と雌をいっしょにすると…」とか、不思議なことが書かれています。これ、浅生鴨さんの妄想のいくつかなんだろうなぁ。

人の講演を聞いているとき、講演者の話を起点にわたしも妄想してしまいます。でも妄想が始まると、もう講演をしている人の話はぜんぜん頭に入ってきません。

「僕もそうですね。もう聞いちゃいない気がします。落語とかを聞きに行っても(妄想しはじめると)ぜんぜん聞いてなかったりしますから。でも、その声に圧倒されて、その声からイメージだけはずうっと浮かんでいくんです。で、また途中でスッと落語のほうに戻って。そんな感じかなぁ」

子どもの頃からそうだったのでしょうか。どんな子だったのでしょう。『どこでもない場所』に子ども頃に本を読んでいた話がありますが。

「子どもの頃から、わりとそんな感じですね。素直ないい子だったと思いますけど(笑)普通の子だと思うんだけどなぁ。本は、ぼく、おもちゃがなく、買ってもらわなかったので。レゴと本だけだったんですよ、うちにあったものが。で、そうすると、本は読むしかなくて。あとレゴってね、空想するしかないじゃないですか。レゴで恐竜つくっても、消防車つくっても、どこか想像でおぎなわないといけないので、たぶん、ずっとそういうことをやってたからだと思うんですよね」

癖なんですね。

「癖ですね」

ちなみに、さっきの、テーブルを傘にかけていた理由は、雨がやんだために傘立てに傘を立てておくと忘れて帰りそうな気がしたから。実際にそうやって忘れた経験があるのでテーブルに傘をかけていました。そのことを浅生鴨さんに明かすと。

「なるほど!傘立てだと忘れますよね。なるほどなぁ。そうですね、先回りして自分が忘れないように…。ぼく、いちいち言ってもらわないとぜんぜんダメだから、ほんとダメなんです…」

自分のことをダメだと言う浅生鴨さんのその雰囲気に、ほんとうに自分をダメだと思っているんだなぁということがしみじみ伝わってきて、なんだか「ダメでもいいよ、ポンコツでもいいよ、こんな素敵な本を書いてくださるんだからっ!!」と、思わず言いそうになりました。

浅生鴨さんが妄想する人なんだろうということは、なんとなく感じてはいましたが、「気づく」ということは、わたしにしては想像だにしなかったことだったので、とっても新鮮で、ハッとしました。ただ妄想しているのではなく、何かに気づいて妄想している。それは、ほんの些細なことなのだろうし、ほかの人が何もひっかからず、通り過ぎてしまうようなこと。その1つ1つに気づいて妄想する。まず気づくことが、浅生鴨さんなんだなぁ。

気づく人と気づかない人、どっちが良くて、どっちが良くないとかではありませんが、わたしが大切にしたいのは気づくほうのことで、それをしぜんとやっていて、そうやって浅生鴨さんが気づいていることの視点が(あぁ、視点というとなんだか形式的でいやなんですけど)、ものの見方や思い方が、わたしは好きなんだろうなぁと、自分が浅生鴨さんを好きな理由が1つわかったように思いました。

さて、このあと、『どこでもない場所』のテーマについて、言葉についてと話は続きますが、今日はここまで。つたない文章、読みにくいであろう構成や見た目の長文を読んでくださり、ありがとうございます。
(お話聴くのに夢中で写真撮るのを忘れたポンコツなわたしです)

欲望

奇をてらうわけでもなく、
たんたんとたんたんと書いていく。
たんたんとたんたんと書かれた言葉の中に
やわらかさとやさしさと
ちょっぴりのユーモラスが
ほのかに感じられて
「これ好きっ!!」じゃなくて
「なんだかこの文章好きだなぁ」って思われる。
そんな文章を書くことができるようになりたいなぁ。